【春草展示複製画】ミニ解説③《黒き猫》誕生の道のり

12月17日から、菱田春草記念室にて「落葉」から「黒き猫」へ―複製画で見る晩年の名画―を開催しています。
今回は晩年の名画《黒き猫》誕生の道のりを紹介します。


明治43年夏
第4回文部省美術展覧会の審査委員にはじめて任命される。審査委員に相応しい大作を出品するよう準備を始める。妻・千代をモデルに、和傘をさした女性のスケッチを何枚も描く(真夏の時期に行ったため千代は脳貧血をおこす)。本制作へ進むが、「着物の色が思ふ様に行かない」ため中断する。【雨中美人(未完成)】
その後、代わりに出品する小品に取り掛かるも、中断する。【黒き猫(未完成)】

9月30日
兄・為吉へ書簡で「出品画(雨中美人)は失敗」「小さき絹へ揮毫(黒き猫未完成)致し候得共是又同様失敗」「今更致し方も無之候」と出品断念を伝える。

10月初旬
友人の齋藤隆三に励まされ、新たに小幅1点の制作をはじめる。
10月5日には「小品壱点」を制作中で「出品致す覚悟」とパトロンの秋元洒汀へ書簡で伝える。

10月6日、8~10日は審査委員の仕事に出る。10月7日には「小幅未成」だが「両三日中完成の見込」「夜分にも執筆」して完成させようと思っていることを高橋錬逸宛書簡につづっていたが、夜中に長男が高熱で倒れる。

10月10日
「明日頃表具出来直に出品致し可申」と高橋錬逸に書簡で伝える。
つまり概算で5.6日ほどで小幅を描き、10日には既に完成して表具屋へ表装に出していたといえる。

10月11日
完成した作品を文部省美術展覧会に出品。【黒き猫】


《黒き猫》に対する春草の評価は「責塞ぎ」の「愚作」や、「駄作黒き猫」などと謙遜が甚だしいです。新たな挑戦を中断し、描きなれた画題で間に合わせる形で描いたためでしょう。しかし、もし未完成の2点で納得していれば、春草の集大成のような《黒き猫》はうまれなかったのです。琳派の造形美、院体花鳥画の気風、西洋美術の写実性が見事に調和しており、春草の研究の成果が詰まった、近代日本美術の代表作といえるでしょう。こうした様々な要件を経て、名画《黒き猫》は誕生しました。

菱田春草記念室 常設展示 「落葉」から「黒き猫」へ―複製画で見る晩年の名画―は2月5日まで。未完成作品2点と《黒き猫》の複製画を並べて展示しております。ぜひご覧ください。

(菱田春草記念室担当)

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