日夏耿之介記念館は、故郷飯田を愛し、飯田市名誉市民第1号に選ばれた日夏耿之介(1890~1971)の功績を顕彰するために、飯田市美術博物館の付属施設として平成元年(1989)10月に開館しました。同じ敷地内には、世田谷の邸宅を移築した柳田国男館が隣接しています。
記念館の建物は、余生を過ごした邸宅を復元したものです。ここでは、日夏宛の献呈本や彼の愛した書画骨董を展示しています。
日夏耿之介について
詩人、文学者、翻訳家として多彩な文芸活動を展開した日夏耿之介。日夏は、明治23年(1890)に、城下町の風情薫る下伊那郡飯田町で生まれました。独特の美意識に貫かれた詩風は識者の間で高い評価を受け、自ら「ゴスィック・ローマン詩体」と称します。早稲田大学、青山学院大学教授を歴任後、郷里飯田で晩年を過ごしました。
日夏耿之介略歴
明治23年 | (1890) | 長野県下伊那郡飯田町(飯田市知久町3丁目)に生まれる。本名樋口國登。飯田尋常高等小学校(現・追手町小学校)に入学した頃は文学、歴史を好んだが、天文学や植物学にも関心があったという。 |
明治36年 | (1903) | 県立飯田中学校に入学するも中退。翌年上京し叔父の樋口龍峡宅に身を寄せ、東洋大学附属京北中学校に編入する。しかし京北中学も神経衰弱のため2年間休学したのち退学 |
明治41年 | (1908) | 早稲田大学高等予科に入学。 |
大正元年 | (1912) | 大学在学中より西条八十、矢口達、瀬戸義直らとともに同人雑誌『聖盃』(のち『假面』と改題)を創刊。この頃より日夏耿之介のペンネームを用いはじめる。 |
大正3年 | (1914) | 早稲田大学文学部英文科を卒業。 |
大正6年 | (1917) | 第一詩集『転身の頌』を刊行。 |
大正11年 | (1922) | 早稲田大学文学部講師に就任。 |
大正13年 | (1924) | 恩師吉江喬松の媒酌により、中島添と結婚。 |
昭和4年 | (1929) | 『明治大正詩史』(新潮社)を出版。20年後の昭和24年に改訂増補した『改訂増補明治大正詩史』にて第1回読売文学賞を受賞。 |
昭和6年 | (1931) | 早稲田大学文学部教授に就任。 |
昭和10年 | (1935) | 早稲田大学辞任。 |
昭和14年 | (1939) | 文学博士号を受け、再び早稲田大学教授に就任。戦時中は疎開のため、郷里の飯田へしばしば帰郷した。 |
昭和26年 | (1951) | 『日本現代詩大系』により毎日出版文化賞受賞。 |
昭和27年 | (1952) | 青山学院大学教授に就任。この年、『明治浪漫文學史』『日夏耿之介全詩集』の二著により日本芸術院賞を受賞。 |
昭和28年 | (1953) | 第1回飯田市名誉市民に選ばれる |
昭和31年 | (1956) | 脳溢血の発作で倒れ、以後療養生活のため郷里飯田の愛宕稲荷神社(飯田市大久保)境内に新居を構え、東京より移転する。 |
昭和36年 | (1961) | 青山学院大学教授を辞任。 |
昭和46年 | (1971) | 6月13日、郷里飯田にて81歳で没する。 |
日夏耿之介コレクションについて
日夏耿之介コレクションは、生前に日夏が愛蔵した書画、文具類830点、原稿・書簡類約2000点によって構成されています。現在、当コレクションは飯田市美術博物館に収蔵され、付属の日夏耿之介記念館および本館の飯田市美術博物館で逐次公開されています。
日夏耿之介は、風雅な文人でもありました。
書斎に籠もると、執筆等創作活動に入る前には徐にお気に入りの器で一杯の玉露を喫し、仕事に飽きると骨董を愛玩し、時には漢詩や俳句、短歌を詠み、ペンを墨筆に持ち替え愛用の硯で墨を擦り、その歌を書き記したりしていました。
床の間には、生け花や調度品などとともに敬愛する文人たちの軸を掛けてはながめ、しばし物思いにふけっていました。日夏に永年私淑した松下英麿(中央公論編集者・評論家)の言葉を借りれば、この風雅な骨董趣味は、「精神的安息を得るための最良の妙剤」であり「精神的生活姿勢の原点」でした。
日夏は昭和15年頃(1940)より、画家の津田青楓らを中心とする月一回の骨董愛好家の集まり「雑炊会」(のち「おけら会」)に参加しました。このことは日夏の骨董趣味に拍車をかけました。日夏は、文人的素養を備えた多芸な人々を好みました。日夏が好んだのは、同郷の先達や伊那谷を来訪した著名人の書画だったようです。佐竹蓬平、原蓬山、富岡鉄斎、白隠慧鶴、太宰春台、岩崎長世等々、彼らはいずれも伊那谷に生を受けたか、あるいは来訪した人物であり、書画、詩歌、学問などを嗜みつつ諸国をめぐった自由人でした。
日夏の著書の挿絵・装幀は、長谷川潔(銅版画家 1891-1980)の手によるものです。
長谷川は、大正7年にフランスに渡ったのち、亡くなるまで帰国しませんでしたが、日夏との交友は渡仏後もずっと続けられました。当館における長谷川の作品は、長谷川が復活させたマニエール・ノワール(メゾチント)による独特な味わいを持った銅版画ほか、挿画を手掛けた限定本や初期の木版画も含まれています。なかには長谷川が日夏のために贈ったことが分かるサイン入りのものもあります。
幻想的で奇怪な版画を数多く生み出した“風船画伯”こと谷中安規(版画家 1897-1946)。実現はしませんでしたが、谷中は、日夏の著書の挿絵を手掛けるべく、出版社を通じて日夏と知り合うことになりました。日夏の手元に残った谷中の作品は、彼の版画人生のなかでも最初期の作品が集中しています。「エロ・グロ・ナンセンス」の風潮を色濃く反映した一連の「妄想」シリーズは、初期の代表作といえます。
會津八一(歌人・書家・美術史学者 1881-1956)は早稲田大学文学部で教鞭をとる同僚でもありました。また書や歌を通じても交流がありました。