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柳田國男館は、日本民俗学の創始者 柳田國男(1875~1962)の書屋を、東京都世田谷区成城から飯田市に移築し、平成元年(1989)に飯田市美術博物館の付属施設として開館しました。

柳田の人と業績等を紹介する「展示室」と、柳田の著書他が並ぶ大書斎「柳田國男記念室」、さらに民間の研究団体「柳田國男記念伊那民俗学研究所」の活動拠点がおかれています。

「民俗の宝庫」―伊那谷の「生きた学び舎」としての活用をねがうものです。

柳田國男

柳田國男館の建物――「喜談書屋(きたんしょおく)」

国際連盟派遣から帰った昭和2年(1927)、イギリスの社会人類学者フレーザーの書斎にならって、「完全なる文庫」をめざして新築したものです。柳田はここに来客を迎えて嬉々として談じようとする気持ちを、地名(東京府北多摩郡砧村字喜多見)にかけて、「喜談書屋」と名づけました。中心をなす大書斎(図書室)には、壁面に書棚を設け、南隅近くに仕事机を据えました。中央の四本柱の内には民俗学徒ら来客を迎え、木曜会や民俗学研究所などを開いたことから、「民俗学の土俵」とよばれました。この建物は、まさに日本民俗学発酵の「母屋」だったのです。

柳田國男と日本民俗学

柳田國男が創りだした日本民俗学は、それまで顧みられることのなかった普通の民―「常民」の歴史を、従来の文書による方法ではなく、言い伝えなどの伝承資料によって、実証的に明らかにしようとするものです。これによって柳田は日本人の「自己認識」を育もうとしたのでした。主著には、『遠野物語』・『日本の祭』・『先祖の話』・『海上の道』など数多くあります。

柳田國男と飯田

兵庫県生まれの國男(旧姓松岡)は、明治34年(1901)、東京在住の旧飯田藩士・柳田家の養嗣子となり、3年後に養父柳田直平の四女孝と結婚。以来、昭和17年(1942)年まで本籍は祖先の地―飯田にありました。柳田は、墓参りや講演などあわせて7~8回伊那谷を訪れていますが、そのたびに伊那民俗学徒らと交流し、多くの指導を与えました。また、阿南町新野の雪祭を紹介し、『信州随筆』や『東国古道記』を著しています。柳田とその高弟折口信夫らの脈々とした研究と紹介によって、伊那谷の民俗は広く知られるようになりました。