受賞作品小論文

わずかな隙間から差し込んでくる光のように「其れ」はとても眩しい思い出となって私の中に流れている。私は二人の子供を育てました。今はたった一人で、その子供たちの巣立った家に住んでいます。残った静かなときは、安らぎと同時に寂しさを加速させます。でも、それはそれでいて結構楽しいものです。

二年に一度ほど、娘がたった一人の孫である観人(かんと)をつれてイギリスから一ヶ月ほど帰ってきます。その観人と遊んでいると、二人の子供を育てたころの思い出のかけらが、垣間見られて懐かしく思い出されます。捕虫網をふりまわす観人のうしろ姿を見ているとまるで息子の「其れ」と交錯して不思議な気分になります。観人の去った部屋にしばらくの間、そこに彼のいる気配が残っていました。気配はやがて体温(ぬくもり)となって、私の傍らに優しく流れ込んできます。
私たちはこの世界に生まれ落ちたその瞬間から、その体温(ぬくもり)を求め続けている。体温(ぬくもり)は、単なる温度差とはちがう。「其れ」は目に見えるものではなく、耳に聞こえるものでもない。いったい「其れ」は何なのでしょうか。

某日、近くの山村に住む一人暮らしの叔母を息子とともに訪ねました。陽だまりの縁側で90歳になる叔母と私の息子がなにやら楽しそうに話していました。「庭の隅にあるあの柿木には昔は食べきれないほど実がなったものだ」…と。息子の大きな背中と対照的に縮んだ叔母の背中…その背中には体温(ぬくもり)が満たされていました。周りのすべてが和やかな暖色の光に包まれ、言葉という伝達手段を必要としないほどにそのすべてが融和していました。しかし、叔母の小さな背中には、沢山の苦労の人生が凝縮されていたはずです。男手を戦争に取られ一人で農家を守り続けた。結婚もせずに…90年の歳月を生きて何が幸せだったのでしょうか。
光と対象に位置する影、そこに存在する愁いの一瞬をかいま見せたのもまた、叔母の小さな背中でした。

己の忠実をその背中に投影している叔母は、他者の体温(ぬくもり)と共に愛され慈しまれながら生かされてきたのでしょう。その慈愛が感謝となり、そこから喜びと希望がうまれ、やがて「体温(ぬくもり)を発信するもの」へと変わっていったのでしょう。時を刻んだ赤い夕陽が沈むその瞬間まで、私自身も歓喜と畏敬の念を持ってそのように生かされたいと願うのです。

暗闇の宇宙にいちばん最初に生まれたものは、体温(ぬくもり)であったといいます。そこからすべてが生まれ、この世界をかたち造った。そこに存在するものすべて、石ころも、虫も、白い雪の上に落ちた枯葉にさえ体温(ぬくもり)があります。すべての始まりがそこにあります。

「うさぎおいし かのやま こぶなつりし かのかわ
ゆめは い ま も めぐりて わすれがたき ふるさと」

人の心は古より体温(ぬくもり)と共にふるさとへ回帰していく。体温(ぬくもり)とはカタチとして表現できないものですが確かにそこに存在しているのでしょう。体温(ぬくもり)は個々が築いてきた真実をその場所で静かに物語っているはず。万物に包み込まれる感性の息吹・平和の協奏曲が「其処」にあるのだと思います。

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大原税子さん、「公募の部」藤本四八市民奨励賞、受賞おめでとうございます。

初の受賞作品が応募された20点という作品の構成ではどうしても散漫になってしまうので、審査員が作者のイメージと心象的なものを考慮して11点に絞りました。その結果作者の撮影意図が見えてきました。

体温(ぬくもり)は感じることと、感じさせることの両面を持ち合せていると思います。

温度差は多少ありますが、撮る側の意図するイメージとストーリーが見るものにも伝わって来るでしょう。

作者が女性として紡いで来た生活と、積み重ねてきた人生、温かな感情と人となりが、審査をした同年代を生きてきた私にも目には見えない体温(ぬくもり)が確かに感じられました。

選考委員 水谷章人

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