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受賞作品小論文

【故郷が原風景】

今、私がこうして、「伊那谷」の変わりゆく四季の移ろいと、そこに息づく人々を長年にわたり撮り続けれる源は何処にあるのだろうかと、ふと考えるときがあります。

戦後の復興の槌音が聞こええ始めた頃の少年期、青春に蒸せり蚊にさされながら高台の土手から眺めた、飯田市街地に上がる遠花火、そんな折り彼方から聞こえる電車の走行音の強弱で、明日の天気が予想できた、五十年もの前になろうとする、故郷の思い出が走馬灯のように今も鮮やかに蘇ります。

四年間程故郷を離れはしたものの、今こうしてどっぷりと「伊那谷」の生活に浸っているとき、あまりにも激しく変わり行く故郷に一抹の危惧を感じたのか、趣味の写真ではありますが、今の故郷を写し残すことの大切さを知りました。

当初は懐古的視点での撮影が主目的でしたが、一人静かに自然と対峙し、撮影するとき、かすかな流れの瀬音や、木々を渡る風の音の轟きが「生命の鼓動」のように聞こえるのを覚え、次第に「生命の存在」を意識するような作品作りに変わってきました。

しかしながら幼き頃見た、故郷の原風景が瞼にあるとき、どうしても求める視野や追求に甘さが出てしまい、自分自身の不甲斐なさをつくづくと知るところです。
【現実社会を見る】

今日の社会を見るとき、あまりにも経済が優先し、精神的余裕のない殺伐とした世相のなかに私たちは置かれています。

かつて宇宙飛行士のガガーリンは「地球は青かった」との名言を残しました。

この地球には、他の惑星と違い、水と、大気がある事により、「生命」があることで、飛行士は緊張のなか、沈み行く太陽を背にした地球が、リング状に輝くさまに感動し、思わず叫んだのでありましょう。

このように宇宙から眺めた地球は、美しく輝く惑星であっても、今、私たちの周りを見るとき、そこには傷つき、汚れ、痛ましく、悲しむべき姿の地球環境となっています。

人類が進化と、生命の保持をする時、そこには多くの生物の犠牲と恩恵を受けつつ、古い文化をのりこえていかなければ成らない宿命があります。

地球規模の環境破壊が問われる今、人類は何を成すべきか?と世界がその方向に視線を向けていますが、他の生命を犠牲にする基本システムが変わらない以上、根本的な解決はありません。

しかしこの難題を謙虚に受けとめ、豊かな発想を駆使し、「自然との共存」を優先するならば、この地球はいつ迄も変わる事なく、豊かな恵みを与え続けてくれるでしょう。
【水】

一滴の水、その存在は余りにも小さく、また私たちは恵まれた環境にあるために、その存在を当たり前と受けとめています。

その一滴の水はやがて手を取り合いながら生物に潤いと恵みを与え、万物を清めつつ、大きなエネルギーを生み、流れ去って行くのです。身近に見る水の美しさ、そして人々の暮らしに関わる部分に目を向けてみました。
【緑】

一滴の水はやがて草木を育て、緑豊かな大地を形成して行きます。人々はその緑豊かな自然から、安らぎの空間と、生命保持に必要不可欠な酸素の供給を受けています。

この最も大切なことを忘れて、経済優先社会は、教も大地を削り、緑を失っています。

環境破壊とは「水と緑」ここから受ける恩恵を安易に考え、忘れた人間社会にあると断言できます。森は水の故郷、緑は人々の安らぐ、その思いが少しでも伝わればと願いつつ、もの言わぬ緑の木々たちに思いを馳せてみました。
【そして人間】

母の胎内に宿した生命は、両親の愛いに見守られこの世に誕生します。家庭という小さな環境から次第に他人との接触を求められ、やがて個性を形成し、社会へと旅たって生きます。

近代社会は、経済の発展を重視し、そのために画一的人間形成の教育が施され、個性を犠牲にしてきた事が、感謝と思いやる心を忘れさせ、今日の殺伐とした陰湿な暗いニュースに明け暮れる社会へと歩む結果となってしまいました。

経済優先の近代社会は、常に一歩先を読む厳しい競争原理の上に成り立っているが故に、人は時として本来持ち合わせている優しい心、思いやる心を捨てなければ成らない、不幸な立場に置かされてしまいます。

農耕民族の血が流れている私たち、「水と緑」の尊さと、その恩恵は決して忘れたり、見失っているものではありません。

激しい競争社会にあってこそ、今私たちは「次はどうなる」と、次世代に目を向けなければいけない立場に置かされています。

季節が変わりゆくとき、人は束の間の時間を、自然を神と崇め感謝と願いを込めた祭りに、熱く燃え上がります。素朴な祭りの場面、素顔のままの人達、そこに人間本来の姿が垣間見られる気がします。

「水・緑・そして人間」共に命あるもの同士がその存在と立場を尊重し、労わり合うならば、この地球はいつまでも青く輝く星であると信じます。

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