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受賞作品小論文

南信州も静岡・愛知の三県境に近くなるにしたがって山の間を天竜川がゆっくりと蛇行して流れるようになる。その天竜川がから急カーブを何度もまがって登りきると、風景が開け青緑色の川面が一望できる。時にはずっと下の方で鳶がピーヒョロロと回っているのが見える。何軒かでできている集落の中に老婆が一人住んでいた。初めてお逢いしたとき妙にその方が気になってカメラを向けた。「わしなんか…」しわだらけの顔をまたくしゃくしゃにしてやんわりと拒否された。地下足袋にもんぺ、毛糸の横縞に編まれたチャンチャンコのようなものに地味なかっぽう着、灰色の髪が丁寧に後ろに束ねられて似つかわしくない派手目な櫛でとめられていた。「写真撮ってあるいとるのかな。お茶でものんでかんかな。そうかな、飯田から来たのかな…わしの息子も飯田に家をたって多摩川精機に勤めとってなあ…。」妙に塩辛い漬物でお茶を飲み干した。家に入ってすぐの部屋の欄間には、お爺さんが二人、お婆さんが一人、ピントのない遺影が茶褐色に変わり、その横に昭和天皇のお姿が飾られていた。「おばあちゃんのだんなさんは?」との私の問いに、いやに若い顔の輪郭に修正された遺影の方を指差して「十四年になる」と言った。その下の棚には伊勢志摩の真珠貝の土産の置物など、さほど遠くない観光地の土産がたくさん収められ、またその下にはブラウン管の四隅が極端に丸い旧式の四足のテレビがあった。風が強く竹藪が音を立ててざわめいていた。静かな口調の目は、両手でゆっくりと回している湯のみ茶碗を見ていた。私は帰り際に「もういいと思っていらっしゃるんでしょうね。長いことご苦労さまでした。」何故かそんなことを思った。

四年ほど経った夏、そこはもう夏草が生い茂り、ねむの花が小さく咲いて跡形も無かった。その年の晩秋、家のあった形跡が僅かに現れて、少しばかりの平らな場所が斜めの光に眩しかった。…あったはずの場所、確かにそこにあった。

人の生はたくさんの喜びとそれ以上の哀しみを繰り返しながら、やがて収束する。人はその喜びを増幅させ、その哀しみ軽減させようとしてきた。そうして生まれてきたものが宗教を含む広義の文化といってよいだろうあの老婆にあって、欄間の写真四枚を、昔から差してきただろうあの似つかわしくない櫛がそうしたものであったかもしれない。生きてきた心の拠り所、そう思えた、しかしそれは、老婆の死(だっただろうと推測されるが)とともに存在理由を失って消滅した。あの場所が包まれていた老婆の精神的内面的に生活に関わってきたもののもたらす空気感はあのとき確かに私に感じられた。形が消滅していた晩秋、その気配はまだ光の中に立ち上がっていた。老婆の生きた晩年、耐え難い不安と孤独をどう癒しただろうか…そう考えながら目の前の風景をカメラに収めた。

文化は人間の歴史の中で発展と消滅を繰り返す。今、目の当たりにする風景は、人間の歴史の結果であり、今の時点の文化そのものである。民族の違いが風景の違いとして表れるように、個々の人が生きていた違いがその生活の場の違いとして表れる。老婆の家の内と外は老婆が生きてきた結果であり、老婆固有の文化そのものであった。

人が存在し、ものが存在する。そこには存在する理由はたがいに影響しあいながら、必ずある。それが存在感である。その存在感にピリオドが打たれようとするとき、すなわち、終の風景が最も高純度化された文化の姿といえないだろうか。その風景に悦びや楽しみより、むしろ多かった痛みや苦しみへの人の思いが重なって美へと昇華する。…両の掌を合わせてその温もりの間に神を宿らせるように…。そしてその情景すらも消滅してまた新たな生へと転変してゆく無常観。写真家として自らの勝手な思い込みの解釈で見た事実を歪めてしまう危険性も十分知りながらも心を奪われる。すべてを突き抜けたように美しいと思う。

毎日よく働いて、たくさんのものを集めてまわり、家を一杯に満たし、入りきれないと言ってはたくさんのものを捨ててきた。しかし、いつもは何か満たされた思いがなかった。その追いかけっこに疲れ果てた今、自分を考え直している。

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