旧飯田藩士 柳田家文書 1713点

柳田家は、寛文12年(1672)堀侯が野州烏山より飯田へ移封になった折に属従した譜代家系の臣である。初代与兵衛篇春・2代勘兵衛罵成・3代清兵衛馬隆・4代清兵衛為重・5代里右衛門罵美・6代清兵衛・7代勘兵衛篤貞・8代東助篤善・9代東次郎篤慶と続き、明治以後は10代直平・11代国男(松岡氏よりの養嗣子、日本民俗学の創始者)、当代篤正となる。柳田家は、堀家移封後も江戸詰めであったが、安政6年(1859)に飯田に帰され、明治9年(1876)に再び上京した。

本文書は、総点数1713点である。江戸時代中期より明治維新までおおよそ200年間にわたる文書であり、柳田家および堀家の歴史を知り、武士階級社会の日常生活の様子を知ることのできる貴重な資料といえる。いくつかを紹介する。

  1. 柳田家累代に下された知行目録。知行の御判物で、殿様より頂戴したものである。他に親戚書・勤書・由緒書など多く、柳田家の歴史を示す証である。
  2. 「勘兵衛今日より右の通り相改む可く候」(親署より)などと殿様から名前を拝領した覚書をはじめとし、堀親昌・親長・親書等の筆蹟による親書や直筆が多数みられ、柳田家と堀家の親密さを伺うことができる。
  3. 5代里右衛門馬美は、主君のために諌死したと伝えられるが、本文書にはそれを示す字句は見当たらない。逝去前後の文書や書簡からその辺りの事情を考察することもできよう。来迎寺の謙良院(篤美)墓碑銘の泰林院書になる原文があるが、これには碑文では伏せられた親長公の名が記されている。
  4. 8代東助は堀公の御側用人を勤めたため、御上からの指示連絡の御書と、それに対処した伺など関係文書・書簡等は膨大なもので、本文書の大部分を占める。また「曲願日記」8冊・「心覚」5冊等の日記類は、極めて詳細に記されており、江戸詰めであったころの「曲瞳日記」には江戸の歌会など文化状況を知ることもできる。また飯田帰藩時を中心とした「心覚」には、息子東次郎の登城勤務が毎日記され、藩士の城内勤務状況がわかるほか、飯田における年中行事や社交状況など、武士階級の日常生活の様子を知ることができる。
  5. 柳田家に関わる女性諸氏を書簡によって推量することができる。格調高く筆跡も優れており、武家の奥を偲ぶことができる数少ない資料である。
  6. 本文書中には、柳田国男がこの資料により祖先について調べた際の註やメモなどが多い。

なお、柳田家が蔵した和綴本類709点が本館に寄贈されている。また他に、箱山貴太郎氏を経由して当館に寄贈された柳田家文書52点(瀧家旧蔵等を含む。『飯田市美術博物館文書目録1」記載)がある。