大河原(大鹿村)前島家文書 6293点

大鹿村大河原の前島家が所持された江戸初期から明治に至る文書である。この全資料は1万点近くにおよぶ膨大なもので、本目録に記載した資料は、のちに述べるいきさつにより現在飯田市美術博物館に収蔵される約6000点を対象とした。他に前島家(現当主前島正介氏)には残りのおよそ2000〜4000点が所蔵されている。

前島家は、伊那郡天領11ヶ村の1つ、伊那代官千村平右衛門の預り地であった大河原村の、定名主を世襲した家柄である。元文2年(1737)より右馬之丞(政俊)、明和3年(1766)からは伴兵左衛門が一時補佐をしたが、天明3年(1783)より兵右衛門(政芳)が定名主となった。文政7年(1824)より八郎九郎(正弼)、嘉永4年より善五郎(政美)が定名主を勤めた。善五郎は明治5年(1872)から戸長を勤めた。

定名主は村役人の最高責任者として、村方と支配者の間にあって貢租等の責務を果たし、村方の治安の維持と生活の安定に意を用い、村政にあたらねばならなかった。村方における最も大きな仕事は、榑木を年貢として幕府に納入することであった。大河原村は延宝5年の検地では村高264石3斗7升余であり、その3割6分の95石1斗7升余が納入すべき年貢であった。これを榑木に換算すると、中榑木で15800余丁といった計算になる。榑木を割り立て、天竜川を川下げして、掛塚から船で江戸その他へ送る。その間の納入管理責任は名主にかかった。のちに榑山を伐り尽くすなどあって、その工面はたいへんであった。全貢租榑木納入は延宝5年(1677)から、榑木および伐材木納は延宝2年から、榑木代金納は宝暦5年(1755)から江戸時代の終わりまで続いた。しかも代金納は宝暦4年頃は一両に付き600丁替であったものが、以後切替ごとに明和元年(1764)500丁替、安永四年(1775)460丁替、安政元年(1854)350丁替とだんだん高値となった。凶作もあったので、その窮状を訴え軽減を嘆願したが聞き入れられず、名主の苦心も並大抵ではなかった。

その他、検地や貢租の問題、国役金や高掛金等の負担、洪水災害や飢饉困窮への対策、被官制度にかかわる問題等々、山積された難題を処理するのも名主の大切な任務であった。

本文書は、大河原村の幕府領榑木成村として榑木納入にかかわる産業経営と村方の営みを如実に知ることができ、近世後期における農山村民の生きざまがみうけられる。また、その間における前島氏の榑木山や村の経営と村民を宰領して行く村長としての手腕と行動を推察することができる。「近世農山村の経営と生きる人々」を究明する上に誠に貴重な資料といえる。

なお、本文書が当館資料となったいきさつについては、つぎのとおりである。昭和8年、当時前島隆俊氏所有の文書を、大河原小学校長堀口氏と教員の森氏および東京帝国大学の学生(のちに東京大学教授)の古島敏雄氏が調査整理して、昭和10年8月に「大鹿村大河原前島家所蔵文書目録」としてまとめられた。

その後、目録に掲載されなかった資料を中心に、古島氏は幾たびかに分けて東京へ持参して研究された。氏の研究業績である「徭役労働制の崩壊過程-伊那被官の研究』『日本封建農業史』「近世日本農業の構造』『信州中馬の研究-近世日本運輸史の一駒』等は、この前島家文書によるところが実に大きいといえる。

これらの資料は古島氏の自宅におもに保管されたが、戦災時には土中に埋められて難を免れ、のちに前島家から一括して購入されるところとなった。

ところが平成7年8月に自宅の火災によって古島氏夫妻は逝去されたが、資料は粉塵や水を被りながらもかろうじて難を免れた。ご遺族より連絡を受けた飯田図書館・飯田市美術博物館が焼け残った蔵書とともに資料を持ち帰り、平成7年10月、前島家の了解のもと、ご子息古島史雄氏より飯田市に寄贈された。翌年8月には同氏より整理用にと多額の費用がご厚志として寄せられている。

本目録に掲載された寄贈資料は、前島家に残される資料とともにきわめて貴重な資料である。