小伝馬町二丁目 岩澤家文書 134点

岩澤幸年(1772~1848)は安永元年(1772)飯田藩士岩澤禰市兵衛の長男に生まれた。通称彦六または忠喜・幸年・葵芳・知足・亀彦と号した。和歌を橘千蔭・村田春海に学び、のち桃漂夢宅並びに香川景樹に学ぶ。また、森廣主・植松茂岳・服部菅雄等が相前後して飯田に来るや、和歌並びに国学を修め、飯田を中心とした文人と交流し、飯田藩の御祐筆であった関係から、写本・著書等数多く、「ちりつか集」10冊、「あふいの花」6冊、「さきくさ集」1冊、「耳目集」4冊等の遺物がある。

当文書目録には、和歌集を中心に、兵法、四書五経、日本外史、日本書紀、漢文書等の一部が掲載されている。

仇なりと思ひすてても柴の戸のさすかに花のあけぼの

この詠は彼の詠歌中の絶唱だと言われている。