飯田・下伊那地域の貴重な文化財情報を検索できます。

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福島家住宅
フクシマケジュウタク
指定区分 市有形文化財(2005.8.4 指定)
員数二棟 制作年代 江戸時代
所在地飯田市本町4−53 所有者福島 稔
 福島家住宅は飯田城下町殿町の一画にある飯田藩士の住居で、下見板張の土塀と棟門形式の表門を構え、前庭の奥に、軒の低い切妻妻入の屋根が見え、武士の住まいの景観をよく留めている。主屋の建築年代は19世紀前期と推定されるが、柱の中には18世紀中期以前に遡るような風格をもった「釿はつり」の柱が10本含まれており、江戸時代中期以前の武士住宅の様子を伺うこともできる。主屋は福島家に伝わる台帳や和田家に伝わる絵図、熊谷家の『家の記』などと類似する間取りであり、諸記録とも一致している。飯田藩で門・塀・主屋が揃って現地に残る唯一の武士住宅遺構であり、江戸時代の飯田藩の実態を知る上で、なくてはならない貴重な文化財であり、市有形文化財として妥当といえる。
データ番号【タ−a−29】 索引【タ】

大名行列
ダイミョウギョウレツ
指定区分 市無形文化財(1968・11 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市本町3丁目 所有者大名行列保存会
 大宮諏訪神社の祭礼として、申寅年の3月末に開催される式年大祭である。江戸時代には、飯田城下町18ヶ町の祭礼として、各町内がそれぞれ本屋台・囃子屋台・旗屋台を曳きまわしたが、現在は各町内や近隣地域から参加する獅子舞・囃子屋台などや、県外から誘致された踊りが賑やかに市街地を練り歩く。
 大名行列は、東野の大獅子と並んで人気の高い出し物で、本町3丁目が担う。同町内では慶応2年(1866)に火災で奴屋台を失ったため新たな出し物を探していたところ、薄井龍之の斡旋で大名行列の道具を入手し、技芸を習得して明治5年(1872)から始めたものである。
データ番号【タ−b-01】 索引【タ】

今田人形芝居
イマダニンギョウシバイ
指定区分 市無形文化財(1990・11 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市龍江3383 所有者今田人形保存会
今田人形は、三人遣いの人形浄瑠璃である。その始まりについて「当村操始之事」と題する古文書には、一人遣いの時代にあたる宝永元年(1704)と記されている。戦後の危機を脱し、現在ではもっとも後継者にも恵まれ、活発な活動を続けている。今日、人形の操法は淡路人形座の指導によるもので、繊細な心情描写を得意とする。平成2年から始めた和蝋燭による独自の演出に人気がある。三番叟は文楽の二人三番叟をアレンジしたものである。
 かしらは90頭を保有する。
データ番号【タ−b-02】 索引【タ】

黒田人形芝居
クロダニンギョウシバイ
指定区分 市無形文化財(1994・2 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市上郷黒田2155 所有者黒田人形保存会
黒田人形は、三人遣いの人形浄瑠璃である。その始まりは一人遣い時代の元禄年間(1688〜1703)といわれ、文政年間以降明治30年代までに淡路の人形遣い吉田重三郎、大坂の人形遣い桐竹門三郎・吉田亀造・吉田金吾らを師匠に迎えた歴史をもつ。特に前三者は黒田に定住して当地に没し、その墓が太念寺にある。また、諏訪神社境内にある人形舞台(国有形民俗文化財)は桐竹門三郎らの設計指導によると推測されている。
 黒田人形でとりわけ注目できるのは、三番叟をはじめ人形の操法に、「手」とよぶ古い型を30近く伝える点である。頭・手・足の動きから連続動作まで、それぞれの型には「くり頭」「弓張り」「なげぶし」などの名前が付き、「膝稽古」によって型の習得に努めていたという。かつては「明神講」や青年会によって担われてきた。
人形のかしらはおよそ100頭を有する。
データ番号【タ−b-03】 索引【タ】

操人形「老女形の首」(黒田人形)
アヤツリニンギョウロウジョギョウノカシラ
指定区分 市有形民俗文化財(1994・2 指定)
員数一個 制作年代 元文2年(1737)
所在地飯田市上郷飯沼3118 所有者黒田人形保存会
現在も上演を続ける黒田人形座には、近年新作も含めて約100のかしらがある。そのうち本資料は頬のやや痩けた初老の女性をかたどった小振りなかしらで、内部に「元文貳丁己二月 山城太野村 竹本松穂作」の墨書銘がある。在銘のかしらとしては全国でも最古である。
データ番号【タ−c-01】 索引【タ】

菱田春草筆「武具の図」
ヒシダシュンソウヒツ ブグノズ
指定区分 市有形文化財(2011.7.20 指定)
員数1面 制作年代 明治27年(1894)
所在地飯田市追手町2-655-7 所有者春草会
データ番号【タ−d-13】 索引【タ】

菱田春草筆「霊昭女」
ヒシダシュンソウヒツ レイショウニョ
指定区分 市有形文化財(2011.7.20 指定)
員数1幅 制作年代 明治35年(1902)
所在地飯田市追手町2-655-7 所有者飯田市美術博物館
データ番号【タ−d-14】 索引【タ】

観耕亭碑
カンコウテイヒ
指定区分 市史跡(1968・11 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市追手町 所有者長姫神社
 碑は飯田城の本丸址、天竜川・松川・伊那山脈が一望できる場所にあり、高さ105p、幅39pの粘板岩製の碑で自然石の台上に立つ。本文は1行30字づめ12行で、この地にあった観耕亭の名の由来と藩主の徳をたたえる文が記されている。内容の概略は「時の藩主堀親義侯は文武の勉強に志し政に励み、折を見ては城外に出て山水を賞することを楽しみとしていた名君である。しかし、外出すると働いている農民の邪魔になる。そこで城中に小亭を作り、そこから城外の農民たちが農耕にいそしんでいるのを眺め楽しんだ。賢者の楽と言うべく、まさに仁政の基とすべきである」という意味が書かれている。「観耕亭記」の篆額は安藤正宜の筆によるもので、碑文は昌平学教官の安積信(艮斎)の作、高橋豊珪の書によるものである。碑文の内容・筆跡ともすばらしい古碑である。
データ番号【タ−d-01】 索引【タ】

日樹上人の墓
ニチジュショウニンノハカ
指定区分 市史跡(1968・11 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市羽場権現 所有者村沢誠
 武蔵国池上本門寺の住職日樹は日蓮宗不受不施派を篤く信奉していたため、時の幕府より弾圧を受け、寛永7年(1630)信州飯田に流され、翌8年この地で没した。日樹の13回忌の寛永20年(1643)に草庵跡に行円院日利等によって建てられたのがこの五輪塔である。安土桃山時代の影響を受けた大きい五輪塔で、当時の様式をよく伝えており、仏教史上からも石造文化史上からも意義深い建造物である。
データ番号【タ−d-02】 索引【タ】

塚原二子塚古墳(塚原1号墳)
ツカハラフタゴヅカコフン
指定区分 市史跡(1968・11 指定)
員数一基 制作年代 古墳時代
所在地飯田市桐林3046 所有者林久直ほか
桐林の南西部、駒澤川と臼井川に挟まれた台地上に立地する。かっては28基の古墳が密集していたが、現在は前方後円墳の塚原第1号古墳(二子塚・市史跡)を主墳として7基が形をのこす。塚原二子塚は全長76b、前方部高さ6.5b、後円部高さ6bを測る。竪穴式石室を推測させるが不明。形象・円筒埴輪片がある。塚原3号・鏡塚古墳(塚原4号)・鎧塚古墳(塚原5号)は帆立貝型古墳で、古墳群からは畿内政権とのつながりを示す鏡鑑・武具・馬具類の良品が多数出土しており、5世紀後半に当地方の中核を担った集団の墓域を構成している。
データ番号【タ−d-03】 索引【タ】

飯田藩主堀家の墓所
イイダハンシュホリケノボショ
指定区分 市史跡(1971・3 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市上飯田4166 所有者長久寺
長久禅寺の裏手墓地の突き当たりに、小さな門が立ち、白壁の築地塀に囲まれてある。正面に「禅林院殿前和州太守大道休也大居士」と刻まれた全高約3b、塔身の高さ135aの笠塔婆が立つ。これは飯田城六代目堀親蔵の墓碑で、堀家中興の主といわれる7代目堀親長の建立である。この右手にほぼ同じ大きさの笠塔婆が2基横に並んでおり、左側は「龍研山道義大居士」とある11代親義(研山)の墓碑、その右が「荊岳院殿前和州太守玉眞常光大居士」とある9代親民の石碑である。
 これら藩主の墓碑三基のもとには、堀氏の妻や夭折した若様などの墓が多くある。西の隅近くには高さ1.4bの花崗岩の自然石3基があり、初代親昌、2代親貞、4代親賢の荼毘の跡である。
 なお、他の飯田藩主堀家の墓は東京都渋谷区東江寺にある。また、長久禅寺の堀家墓地の東側に前飯田藩主の脇坂家の墓地があり、脇坂安元の五輪塔が安置されている。
データ番号【タ−d-04】 索引【タ】

神の峰城跡
カンノミネジョウアト
指定区分 市史跡(1972・5 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市上久堅8166-3 所有者久堅神社
天竜川の東、伊那山地の南西側丘陵上に見える独立峰、海抜771bに立地する。主郭・二の郭・三の郭・北小屋・南小屋・空堀等々の縄張りがみられる。主郭は地元で本丸と呼ぶ中央部に位置し、東西40b、南北20bで、NHKのテレビ塔が建っている。二の郭は出丸といわれる所である。
 神之峰城は床山城ともよばれ、諏訪氏の一族である知久氏の居城である。鎌倉時代は知久本郷(下久堅知久平)に住み、文亀年間(1501〜04)頃に世の戦乱に対応して、神之峰城に移り住んだと推測されている。天文22年(1554)に武田信玄の伊那攻略にあい落城した。
データ番号【タ−d-05】 索引【タ】

白隠石
ハクインセキ
指定区分 市史跡(1972・11 指定)
員数一基 制作年代 
所在地飯田市竹佐344-16 所有者山本竹佐区
「南無観世音」と刻まれたこの石碑は、台石の上に高さ1.9m、幅1.3mの花崗岩の自然石を用いたもので、左下に刻まれた「白隠書」でわかるように江戸時代の禅僧白隠禅師の手によるものである。白隠慧鶴は貞享2年(1685年)駿河国原宿(沼津市原)の生まれで15歳の時出家した。その後全国を行脚修行し禅を人々に説き「臨済宗中興の祖」と位置づけられる。宝暦7年(1757年)この地方に疫病が流行した時、73歳の白隠禅師は上川路の開善寺にしばらく足をとどめていた。それを聞いた竹佐の村人は白隠に揮毫をお願いして、疫病の退散を祈願した。尻詰まりの五文字と斜めに傾いた名前の配置から、用意されていた自然石に即座に書かれたことが伺われるが、豪放生気・溌剌慈悲の気持ちが込められた文字は白隠禅師の人柄を表している。地元では白隠講をつくり、家内安全・無病息災・子孫繁栄を祈願し、春と秋にお祭りをしながら大切に守り続けている。江戸時代の建立から約250年間、現在地から60mの場所で祀り続けられてきたが、道路改良のため平成16年(2004年)にこの地に移転した。
データ番号【タ−d-06】 索引【タ】

八幡の道標
ヤワタノドウヒョウ
指定区分 市史跡(1985・6 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市八幡町1971-1 所有者八幡区
下条街道と秋葉街道が分かれる鳩ヶ嶺八幡宮の前に立つ、花崗岩の四角柱である。正面には「右 志もぢょう 左 あきは道」、右側には「宝暦十辰二月廿四日」左側に「宮田 當町 講中」の印刻がある。鼎下茶屋の道標と同じものであり、当時の交通史上貴重な資料である。
データ番号【タ−d-07】 索引【タ】

下茶屋の道標
シモチャヤノドウヒョウ
指定区分 市史跡(1985・6 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市鼎下茶屋994-6 所有者飯田市(管理者 牧野忠夫)
この道標は、地上に高さ63p、25p×21pの花崗岩の四角柱で、正面に「右 八王た与あきは 左 いくまみち」、右側面「宝暦十辰年二月廿四日」、左側面「宮田講中 当村新井六左衛門 茶屋町講中」と印刻されている。遠州街道と伊久間街道の分岐点に建てられたものである。八幡の道標と同じものである。
データ番号【タ−d-08】 索引【タ】

知久平城跡
チクダイラジョウアト
指定区分 市史跡(1996・10 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市下久堅知久平ほか 所有者宮内通美ほか2名
中世から近世にかけて天竜川東岸地域一円を支配した知久氏の居城。城跡は、東西450m、南北750mの規模を測る平山城で、段丘の端部を利用して本郭を中心に複数の郭が連続し、空堀・土塁等の諸施設が各所に残存している。知久氏は鎌倉時代からこの地の領主として戦国時代に至り、武田信玄の伊那郡侵攻に最後まで抵抗するが天文23年(1554)に破れて一時没落する。その後、天正10年(1582)の武田家滅亡後は徳川支配地となり、知久平城は菅沼定利の居城となるが、菅沼氏の国替えにより天正16年(1588)廃城となる。
データ番号【タ−d-09】 索引【タ】

水城の水佐代獅子塚古墳
ミズキノミサジロシシヅカコフン
指定区分 市史跡(2000・11 指定)
員数一基 制作年代 
所在地飯田市松尾水城 所有者水城区ほか
本古墳は前方部を南西に向けた前方後円墳であるが、後円部の一部が旧状を保つとみられるものの、周囲は宅地・道路により削平されており、前方部端部など大きく形を変えている。そのため規模は特定できないが、残存状況から全長53〜57m、後円部径33m、前方部前端部幅21〜23m、高さは3〜4m程度と推定される。『下伊那史』第二巻によると、石室があり刀が出たとの記載があるが、正式な発掘調査を実施していないため詳細は不明である。後円部では埴輪が採集されている。墳丘上の祠周辺の石には石室石材を転用したとみられるものもあり、これまで横穴式石室とされてきた経過もあるが、墳形や周辺の状況から竪穴式石室の可能性も否定できない。
データ番号【タ−d-10】 索引【タ】

御射山獅子塚古墳
ミサヤマシシヅカコフン
指定区分 市史跡(2003・7 指定)
員数一基 制作年代 古墳時代
所在地飯田市松尾久井284 所有者飯田市
本古墳は前方部を南西に向けた前方後円墳である。古墳の規模は現状で全長約64m、後円部の径32m、前方部前端部幅46m、高さ8m程度で、市内の前方後円墳の中でも大型の部類に入る。一部削平されているが、残存状態は比較的良好である。これまでに正式な発掘調査は実施されていないが、『下伊那史』第二巻によると、かつて横穴式石室があり、周囲の開墾の際に破壊されたとの記載があり、また鏡・土師器・須恵器が出たとされるがこれとの関連は不明である。このため、本古墳についての情報は現時点ではほとんどないが、南側に隣接する茶柄山古墳群は前方後円墳1基を中心とする5世紀後半の古墳群で、発掘調査により馬の埋葬墓が10基確認されたことで、馬生産にかかわる集団の墓地であることが明らかとなっており、この古墳群との密接な関連が想定できることから、当地方の古墳時代における位置づけとしても重要な古墳の一つであるといえる。
データ番号【タ−d-11】 索引【タ】

風越山白山社奥社境内地
カザコシヤマハクザンシャオクシャケイダイチ
指定区分 市史跡(2003・12 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市上飯田 風越山白山社奥社境内地 所有者白山社・丸山享保会
風越山(かざこしやま)は、白山社奥社が鎮座し権現山と呼ばれ、往古より霊山として崇められてきた。白山社奥社は、本地垂迹説から起こった神仏習合の社で、特に本殿は国の重要文化財に指定されている。また、白山社境内周辺一帯は、白山社の中心的な領域であり、そこには宗教的要素を持つ多くの石造物が点在している。こうした石造物は、年代的にはいずれも江戸時代中期以降のものであるが、江戸時代を中心に白山信仰・山岳信仰・庶民信仰がこの地でいかに盛んであったかを知る上で大変貴重な文化財といえる。駐馬巖、自然石と石段、役小角像、燈籠、名号石(六斗石)、金毘羅大権現、弘法大師摩崖像、参道丁石、御手洗鉢、地蔵菩薩像などが点在している。山頂周辺には日夏耿之介(名誉市民)の句碑もある。また、境内地の中心となる奥社には、本殿のほか、幣殿・拝殿、随身門(いずれも市有形文化財)がある。
データ番号【タ−d-12】 索引【タ】

菱田春草筆「帰樵」
ヒシダシュンソウヒツ キショウ
指定区分 市有形文化財(2011.7.20 指定)
員数1幅 制作年代 明治39年(1906)
所在地飯田市追手町2-655-7 所有者飯田市美術博物館
データ番号【タ−e-18】 索引【タ】

羽場の大柊
ハバノオオヒイラギ
指定区分 市天然記念物(1968・11 指定)
員数一本 制作年代 
所在地飯田市羽場町3丁目726 所有者小林源治
モクセイ科の常緑高木で、福島県南部から四国にかけて自生する。長野県内では伊那谷南部と木曽地方にわずか見られる。樹齢は400年以上と考えられており、胸高周囲3.4m、樹高12mを測る。昭和45年春、中央自動車道工事に伴い東方に31m移動し、それ以来現在の位置にある。この木は「下市田のヒイラギ」(県天然記念物)に次いで2番目の大きさを誇っている。
データ番号【タ−e-01】 索引【タ】

龍江大屋敷のイワテヤマナシ
タツエオオヤシキノイワテヤマナシ
指定区分 市天然記念物(1971・3 指定)
員数一本 制作年代 
所在地飯田市龍江9637 所有者中山与平
イワテヤマナシはバラ科ナシ属の落葉高木、東北地方の原産で本州と九州北部に分布している。アオナシ・ミチノクナシ等の呼び名がありこの地方ではシモナシと呼ばれ、龍江・千代・泰阜に見られる。自生か栽培かははっきりしていないが、自生とすればイワテヤマナシの南限として貴重である。胸高周囲2.6m、樹高15m、推定樹齢250年の古木である。
データ番号【タ−e-02】 索引【タ】

正永寺原の公孫樹
ショウエイジバラノイチョウ
指定区分 市天然記念物(1972・5 指定)
員数一本 制作年代 
所在地飯田市上飯田1499 所有者今村光伸
胸高周囲5.8m、樹高40m、推定樹齢450年の雌木で、イチョウの特徴である柱瘤が垂れ下がっている。室町時代にこの地の領主である坂西兵庫由政が正永寺を建立したときに植えたとされる。腐食部分に寄生した植物に混じってイチョウの雄木が成長しているのも珍しい。
データ番号【タ−e-03】 索引【タ】

桜丸の蚊母樹
サクラマルノイスノキ
指定区分 市天然記念物(1971・3 指定)
員数一本 制作年代 
所在地飯田市追手町2丁目678 所有者長野県
イスノキはマンサク科の常緑樹で、この地方には自生しない暖地性の樹である。胸高周囲3.0m、樹高25m、推定樹齢200年ほど。飯田城桜丸の庭園に植えられたものであり、風越焼きの釉薬に使われたとも言われる。葉には虫えいができ、そこから羽虫が飛び立つことから、蚊の生まれる木「蚊母樹」の名前がついたともいわれる。
データ番号【タ−e-04】 索引【タ】

愛宕神社の清秀桜
アタゴジンジャノセイシュウザクラ
指定区分 市天然記念物(1973・12 指定)
員数一本 制作年代 
所在地飯田市愛宕町2781 所有者愛宕稲荷神社
 ばら科に属するエドヒガンザクラである。鎌倉時代仁治年間に清秀法印が地蔵寺の境内に手植えしたものと伝えられる。地蔵寺は飯坂城(愛宕城)の城主・坂西氏が長姫城に居を移した際、飯坂城跡地に建てられた寺とされ、現在は愛宕神社になっている。太さ根廻り7m、胸高周囲6.5m、樹高約10mの大木であるが、落雷のため幹が割れて空洞ができ、根元も数本に分かれている。エドヒガンザクラにしては花の色が濃いことが特徴である。推定樹齢750年で、市内最古の桜である。
データ番号【タ−e-05】 索引【タ】

鳥屋同志のカヤの木
トリヤドウシノカヤノキ
指定区分 市天然記念物(1985・6 指定)
員数一本 制作年代 
所在地飯田市大瀬木3530 所有者飯田市(管理者 旭ヶ丘中学校)
 飯田・下伊那屈指の大木で、胸高周囲4m、樹高20m、樹齢300年以上と推定される。カヤはいちい科カヤ属の植物で、雌雄異株の植物である。花は晩春に開花し、種子は翌年の晩秋に熟す。種子は食用と薬用に利用される。常緑樹で、材は碁盤や将棋盤に利用される。分布は本州関東以西から九州に自生するといわれ、各地に植栽されている。本株は雌株で樹勢もたいへん良く、年々多量の果実が結実している。その実には、二つの小さな穴があり、「弘法様の針の跡」と呼ばれている。
データ番号【タ−e-06】 索引【タ】

鼎一色の大杉
カナエイッシキノオオスギ
指定区分 市天然記念物(1985・6 指定)
員数一本 制作年代 
所在地飯田市鼎1色15 所有者一色諏訪神社
スギはスギ科の常緑針葉樹で日本の特産種であり、各地に広く植林されている。幹は直立して50mに達するものも珍しくない。材は家屋、桶、樽、曲物に使用されるほか、古くは神事に用いられてきた。一色諏訪神社は、鼎と伊賀良の境界にほど近い段丘状にあり、境内には数本の杉があるが、その中央に立っているのがこの大杉である。胸高周囲4.9m、樹高40m、推定樹齢360年をこえる。市内でも屈指の大木で樹勢もあり、神社の御神木として大切に保存されている。
データ番号【タ−e-07】 索引【タ】

ギフチョウ
ギフチョウ
指定区分 市天然記念物(1989・1 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市全域 所有者飯田市
ギフチョウは、羽を広げた大きさが5〜6cmの小型の蝶でアゲハチョウ科に属する。日本特産種で本州のみに分布しており、早春の短い時期にのみ現れることから「春の女神」と呼ばれている。羽は黒と黄色の縞模様であるが、この地方のものは黒い帯が太いのが特徴である。吸蜜植物としてはカタクリ・サクラ類・ツツジ類・スミレ類等が知られており、幼虫の食草としてはヒメカンアオイ・ウスバサイシン等であり、双方の分布の重なる天竜川沿岸に棲息する。
データ番号【タ−e-08】 索引【タ】

阿弥陀寺のシダレザクラ
アミダジノシダレザクラ
指定区分 市天然記念物(1990・1 指定)
員数一本 制作年代 
所在地飯田市丸山町2丁目6728 所有者阿弥陀寺
シダレザクラ(イトザクラ)はバラ科サクラ属の植物で、エドヒガンを母種とする一品種であるが、枝が下垂する特性がある。阿弥陀寺のシダレザクラは、飯田城主脇坂侯お手植えの桜と言い伝えられており、推定樹齢はおよそ400年とされる。樹勢、樹形が良く、木の大きさは、目通り幹囲4.2m、樹高11m、枝張りは東西14m、南北18.5mで、古木のうえ大樹であることから品格がある。開花期は4月上旬で、花色は、つぼみから開花の当初は深紅色で最盛期には淡紅色となり、風格さえ感じさせる。なお、隣接地には脇坂侯にゆかりのある市指定有形文化財の千体仏観音堂と仁王門がある。
データ番号【タ−e-09】 索引【タ】

千代のアベマキ
チヨノアベマキ
指定区分 市天然記念物(1991・3 指定)
員数一本 制作年代 
所在地飯田市千代1252-2 所有者林良三
アベマキは、ブナ科アベマキ属の落葉高木で、一名マキ、地元千代地区では、オオマキと呼んでいる。本州(山形県以南)、四国、九州に分布し、飯田・下伊那地方では、暖帯・暖温帯の地域で見られる。他の樹木と異なり、樹皮にコルク層が発達しており、薪炭材やコルク材として利用される。。樹齢200年以上で樹勢もよく、飯田下伊那地方では屈指の大樹である。胸高周囲3.9m、樹高約16m、枝張り東17.2m、西14m、北13.7m。
データ番号【タ−e-10】 索引【タ】

嵯峨坂ざぜん草自生地
サガサカザゼンソウジセイチ
指定区分 市天然記念物(1995・10 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市下久堅下虎岩 所有者尾曽広男
本州中部から北の地方の谷間の陰地に生える無茎の多年生草本。 葉は根から群がり生え、大きく長柄がある。 4月に葉の開かないうちにまだ巻いたままの葉束のそばに根元から花序を地上に出し、下は竹の皮状の鱗片で包まれている。 紫斑のあるもの(ウズラザゼンソウ)、緑色のもの(アオザゼンソウ)もある。達磨大師が座禅をしている姿に見立ててその名が付いた。市内嵯峨坂には500株以上のざぜん草が自生し、市内最大の自生地である。
データ番号【タ−e-11】 索引【タ】

万古の栃の木
マンゴノトチノキ
指定区分 市天然記念物(1996・10 指定)
員数一本 制作年代 
所在地飯田市千代法全寺万古 所有者飯田市千代財産区
樹高約25m、胸高周囲8.7m、推定樹齢700年。栃の木としては当地方屈指の巨木である。トチはとちのき科の落葉高木で、5月頃、枝頭に白い花をつける。10月に栗に似た丸い実をつけるが、そのままではアクがあり食用にならないため、さらしてから栃餅などに加工する。林道千遠線から約10分程下ったスギ林の中に自生するこの樹幹には、古木だけに蛇の鱗状の樹皮が浮き立つ。むかし木地師が神の木として崇めたことから残されたものであろうと言われている。犬ブチの大樹と並立している。
データ番号【タ−e-12】 索引【タ】

野底山次郎坊のチョウセンゴヨウ
ノソコヤマジロウボウノチョウセンゴヨウ
指定区分 市天然記念物(1997・6 指定)
員数一本 制作年代 
所在地飯田市上郷黒田3842 所有者飯田市野底山財産区
チョウセンゴヨウ(標準和名 チョウセンマツ)は、氷河期の化石からも確認される古い種類のマツ科の常緑高木で、中部・四国地方の亜高山帯に自生する。材質は柔らかく、ヒノキの代用として建築に使われることもあり、葉は5本が束生し、大きな松の実は食用になる。このチョウセンゴヨウは、樹高約38m、胸高周囲3.2mで樹齢はおよそ280年と推定される。本来、亜高山帯に自生するチョウセンゴヨウが、なぜこのような低地(標高850m)にあるのかは不明だが、次代に受け継ぐべき貴重な樹である。

※市指定天然記念物(1997.6指定)→2013.1解除(2012.6に倒木確認。)
データ番号【タ−e-13】 索引【タ】

毛賀くよとのシダレザクラ
ケガクヨトノシダレザクラ
指定区分 市天然記念物(2000・11 指定)
員数一本 制作年代 
所在地飯田市松尾毛賀 所有者毛賀諏訪神社
推定樹齢300年、胸高周囲3.8m、樹高15mを測る古木である。「くよと」とは供養塔のことであり、旧遠州街道沿いにある秋葉様・蚕玉様・天神様などの石碑群の上を覆っている。樹勢もよく枝振りも極めてよくシダレザクラの典型的樹形を保っている。他の桜の古木に比べ枝枯れ、枝折れも少なく、道路を覆って伸び出る枝は15mを越え、開花期には見事な花の天蓋をつくる。地元住民は常夜灯の灯明を絶やすことなく管理して大切に桜を守っている。
データ番号【タ−e-14】 索引【タ】

黄梅院の紅しだれ桜
オウバイインノベニシダレザクラ
指定区分 市天然記念物(2000・11 指定)
員数一本 制作年代 
所在地飯田市江戸町3−251 所有者黄梅院
曹洞宗青松山(せいしょうざん)黄梅院は、島田村(今の飯田市松尾)に建立された後、天正年間に現在地に移されたと伝えられる。この紅シダレザクラは、紅梅を思わせる赤味の濃い花をつけ、シダレザクラの典型的な美しい樹形をつくる。推定樹齢400年、胸高周囲5.5m、樹高約18m。幹の途中から更新されて出た根は、古い幹内に食い込んで成長を支え、樹勢もよく枯れ枝等は見られない。飯田の桜の中でもとりわけ著名であり、開花期には多くの市民やカメラマンが訪れ、格好の被写体となっている。
データ番号【タ−e-16】 索引【タ】

浅間塚の一本杉
センゲンヅカノイッポンスギ
指定区分 市天然記念物(2002・7 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市上郷黒田4233 所有者飯田市
上郷黒田地区の最北端、座光寺に境を接する標高670bの尾根筋のある浅間塚の頂部に位置する。推定樹齢600年以上、胸高周囲4.2m、樹高約22m。樹齢については、昭和49年の雪害により折損した枝から286年の年輪が確認され、折れた枝の位置から樹齢600年以上と推定された。科学的根拠に基づき樹齢が推定されていることは貴重である。また、このスギの立地場所が酸度の強い地質、劣悪な水条件・気候条件など必ずしもスギの成長にとって好適な環境とは言えないにもかかわらず、下枝を広げた表日本杉の典型的な樹形は、市域の社叢等には見られないものであり、樹勢も良好である。この一本杉は、「浅間塚の一本杉」の名前からもわかるように富士塚信仰・浅間塚信仰・御岳信仰との関わりが考えられ、地元の方々もこのスギに御幣を立てるなど信仰の対象として大切にされてきた。
データ番号【タ−e-17】 索引【タ】

立石寺前のシダレザクラ
リッシャクジマエノシダレザクラ
指定区分 市天然記念物(2003・12 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市立石97-5 所有者塩澤正夫
推定樹齢700年とされ、飯田市内では2番目に古い桜と言われている。胸高周囲3.5m、樹高8m。樹幹は失われ樹皮のみで生命を保っている状況だが、春には美しく花を咲かせ、訪れる人の目を楽しませてくれる。「立石寺ゆかりの三本桜」の一本として地区の人々から親しまれており、由緒・歴史のある立石寺とのつながりが想定される。「三本桜」と言われるのは、元々三本揃っていたが、他の二本はすでに枯死してその跡が残るのみである。また、三本桜の位置を地図で結ぶと直線になり、それを西の方に延長していくと甲賀流忍術の発祥地、滋賀県南東部の甲賀郡に到達するという言い伝えが残っている。
データ番号【タ−e-18】 索引【タ】

風越山山頂のブナ林・ミズナラ・イワウチワ等の自生地及び花崗岩露頭
カザコシヤマサンチョウノブナリン・ミズナラ・イワウチワトウノカコウガンロトウ
指定区分 市天然記念物(2003・12 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市上飯田 風越山山頂 所有者
風越山山頂には、ブナ、ミズナラ、イワウチワなどの希少な植物が自生している。ブナは、純林を形成することが多いが、飯田市内ではほとんど伐採されて純林は残っておらず、巨木になったブナ林が手つかずに保存されている。また、表日本型のブナ林としても貴重である。ミズナラは、飯田市内では1000m付近から自生しており、風越山山頂ではブナ林と混生している。イワウチワは、長野県レッドデータブックには記載されていないが、飯田下伊那地域ではめったに見られない希少種である。また、山頂付近には、花崗岩露頭(風穴)がある。これは、花崗岩が節理に沿って風化しブロックになり、風化したマサのみがうまく取り除かれ、ブロック化した花崗岩の岩石のみが残る。そしてこの巨石群の隙間を冷たい地下水が通り、冷やされた空気が地表に出て花崗岩露頭(風穴)になるというもの。
データ番号【タ−e-19】 索引【タ】

鬼神面
キシンメン
指定区分 市有形文化財(2006.05.12 指定)
員数一面 制作年代 南北朝〜室町時代初期
所在地飯田市南信濃木沢1022番地 所有者青龍寺
 頭部に2本の角を突き出し(先端は欠損)、顔幅は広く、ハの字に下げた眉の下に眼球が飛び出し、口を大きく開け、髪は少し盛り上げて頭頂で分けている。目に金泥、口唇に朱が残る。裏面は上半部のみを深くえぐり、下半部は楕円形の穴により口の奥部と接続する。両側辺には二対の四角な紐穴が穿たれる。
 本面は、以上の造形からみて、般若面が成立する以前の南北朝時代から室町時代初期の作と推測され、蛇面ともよぶのがふさわしい。したがって、長野県内屈指の古面として貴重である。
なお、本面を伝える青龍寺は慶長10年(1605年)に南信濃和田の龍淵寺の末寺として創建されたと伝えられるが、その歴史は必ずしもあきらかではなく、古寺の存在も否定できない。いずれにしろ、本面は寺院の追儺行事に使われたものと思われる。
データ番号【タ−a−25】 索引【タ】

水佐代獅子塚のエドヒガン
ミサジロシシヅカノエドヒガン
指定区分 市天然記念物(2000・11 指定)
員数一本 制作年代 
所在地飯田市松尾水城 所有者水城区
飯田市史跡「水佐城獅子塚古墳」の前方部墳丘上にある胸高周囲5m、樹高15mを測る大木で、樹齢は300年以上と推定される。市内で最も早く開花するエドヒガンザクラで、この桜が開花し始めてから数日たつと丘の上の市街地の桜が一斉に開花する。この木は江戸時代の中ごろ、この塚に埋葬されている豪族の霊を慰めようと植えられたもので、その後多くの人の世話を受け、現在に至るまで古墳とともに地区の人々の信仰を受けている。地元の人達は「おたちふの桜」と呼び親しんでいる。
データ番号【タ−d-15】 索引【タ】

旧法蓮寺の六地蔵石幢
キュウホウレンジノロクジゾウセキドウ
指定区分 村有形文化財(2014.3 指定)
員数1基 制作年代 元禄13年(1700)
所在地下伊那郡松川町元大島新井松川 所有者林叟院
データ番号【チ-18】 索引【チ】

京極高知伝馬条記
キョウゴクタカトモテンマジョウキ
指定区分 町有形文化財(2014.3 指定)
員数1点 制作年代 文禄2年(1593)
所在地下伊那郡松川町大島上部 所有者
データ番号【チ-19】 索引【チ】

石造丸彫養蚕神
セキゾウマルボリヨウサンシン
指定区分 町有形文化財(2014.3 指定)
員数1基 制作年代 江戸時代
所在地下伊那郡松川町生田下峠 所有者
データ番号【チ-20】 索引【チ】

白隠禅師三幅対
ハクインゼンシサンプクツイ
指定区分 町有形文化財(2014.3 指定)
員数3幅 制作年代 宝暦7年(1757)
所在地下伊那郡松川町上片桐 所有者瑞応寺
 瑞応寺は、松川町上片桐に建つ臨済宗の禅刹。文明十一年(一四七九)、同地の豪族片切長忠の開基、雪岫宗秀の開山により創建された。戦国期に戦火を得て焼失したが、第八世で中興開山の梅園祖嶺が、延宝二年(一六七四)に本堂・庫裏などを再建した。白隠の来錫があったのは、第十一世関洲禅機の時で、宝暦七年(一七五七)九月に白隠による法華会が開かれている。白隠の来錫に先立って、同寺の和尚が駿河まで赴いたともある。
 禅宗では、崇拝対象とする仏画よりも、悟りに至った先達である祖師像(頂相)を多く描く。悟りへと至った先人の行状に触れ、先人にならって修行し自己の中にある仏性を見いだすことを大事にするためである。白隠が描く図像も基本は禅宗美術の延長上にあって、祖師像を頻繁に描いている。
 本図は、禅宗の初祖達磨を中幅にして、向かって右幅に中国臨済宗の祖である臨済、左幅に中国雲門宗の祖である雲門を配置する。中世以来の頂相画の僧侶が椅子に坐す形式とは異なり、勢いのある墨線を用い肉身など一部を着彩して描いている。
 達磨図は、片方の履を持つ隻履達磨で、「嗟君未到金陵日 寡婦掃眉坐緑氈 君既到金陵城後 慈鳥失母咽寒煙」の賛を付す。
 臨済図は、右手の拳を握った姿で描き、「子不幸 僧不律 逢客振瞋拳 看人漫喝出 堂々骨相冷秋霜 可惜斯人有斯疾」の三を付す。意味は、「子としては不孝である。僧にしては不律である。客に逢っては怒って拳を振るい。人を見てはみだりに喝を出す。堂々とした骨相は秋霜より冷ややかである。惜しむべくはこの人にしてこの癖があることである」。臨済は、悟って師を殴り一喝した。その伝記が賛の素地になっている。
 雲門図は、袈裟の袂を持つ仕草を描く。賛は「世界恁摩曠濶 依什麼聞鐘聲着七条」。意味は「世界はこんなにも広々としているのに、鐘が鳴るとどうして袈裟を付けて法堂に集まるのか?」で、雲門の鐘声七条の公案から取材する。

[『信州の祈りと美−善光寺から白隠、春草まで−』(飯田市美術博物館、2015年)解説より]
データ番号【チ-21】 索引【チ】

舟形庚申供養塔
フナガタコウシンクヨウトウ
指定区分 町有形文化財(2014.3 指定)
員数1基 制作年代 宝暦7年(1757)
所在地下伊那郡松川町生田福与 所有者
データ番号【チ-22】 索引【チ】

舟形双体道祖神
フナガタソウタイドウソジン
指定区分 町有形文化財(2014.3 指定)
員数1基 制作年代 文政3年(1820)
所在地下伊那郡松川町生田 所有者
データ番号【チ-23】 索引【チ】

木造閻魔王と十王一具
モクゾウエンマオウトジュウオウイチグ
指定区分 町有形文化財(2014.3 指定)
員数一件 制作年代 江戸時代
所在地下伊那郡松川町上片桐 所有者清泰寺
 清泰寺十王堂の閻魔王像は、像高2b近い伊那谷最大級の木彫像である。
 堂内にはこのひときわ大きなこの閻魔像と、一尺ほどの大きさの十王像群が安置されている。これらの群像は、地蔵菩薩像と奪衣婆、亡者の罪業を報告する司命・司録を加えて成り立っている。各像の尊名は判じがたいものの、司命・司録像のいずれか一躯が欠けているほかはすべて揃っており、先の閻魔王像とは明らかに作風が異なっているため、元はこれらの像は一具のものでなく、おそらくはじめに十王の群像が作られ、のちに閻魔王像が増補されたものと推察される。
 残されたいくつかの銘文により、本像に関する具体的な情報を知ることができる。面部裏側の銘にある「井出長(以下不明)」は、飯田に拠点を置いた仏師「井出長之輔(または長之助、長吉)」を指すものであろう。閻魔王像の面部裏側に記された「明治廿年」(1887)という年号は、長之輔の活動期と矛盾するものではないが、そのまま制作年を示すものではなく、このときに大規模な解体修理が行われ、その際の中心人物が長之輔であったということではなかろうか。なお、首の部分に「春日御作」とある。これは伝説の仏師である春日の名を語るもので、ただちに春日を名乗る仏師が本像を造ったということではない。ただし明らかに長之輔の署名とは書体が異なっており、長之輔が明治20年に実施したのは造像でなく修理であったことを裏付ける。
 浄玻璃鏡の裏面には明和3年(1766)に再興した旨が記されている。清泰寺は、元禄2年〜享保4年(1689〜1719)のあいだは臨済宗から浄土宗に転宗した時期であり、また天保7年(1836)に再び浄土宗へと転宗したといい、十王については延宝6年(1678)以前から存在したという。近世における地蔵十王信仰はおもに禅宗によって育まれたものであり、清泰寺における十王関係の尊像が臨済宗に属していた時代に整備されたようすが窺われる。
 以上の所見を以下に整理する。閻魔王像は、明治20年(1887)に大規模な修理が井出長之輔によって行われた。このことを踏まえ、保存状況、寺の歴史、他の十王像の存在などを考慮すると、浄玻璃鏡の裏面にある明和3年(1766)あたりに、従前からある十王の群像に加えて本像が増補された(全体の状況からすれば「再興」)とみることが可能であろうか。閻魔王の存在をことさら強調するのも江戸時代以降の一つの傾向であろう。

[平成21年11月調査時の所見より(調査者:飯田市美術博物館・織田顕行)]
データ番号【チ-24】 索引【チ】

屋敷添古墳
ヤシキゾエコフン
指定区分 町史跡(2014.3 指定)
員数1基 制作年代 古墳時代
所在地下伊那郡松川町元大島 所有者
データ番号【チ-25】 索引【チ】

元大島防空監視哨の跡
モトオオジマボウクウカンシショウノアト
指定区分 町史跡(2014.3 指定)
員数 制作年代 昭和19年(1944)
所在地下伊那郡松川町元大島 所有者
データ番号【チ-26】 索引【チ】

陸軍戦闘機墜落の地
リクグンセントウキツイラクノチ
指定区分 町史跡(2014.3 指定)
員数 制作年代 
所在地下伊那郡松川町生田 所有者
データ番号【チ-27】 索引【チ】


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参考文献/『伊那谷の文化財 - 飯田下伊那の特質を探る -』飯田市美術博物館発行
- WebLibrary Ver0.89 -