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検索結果:181件 [再検索]
菱田春草の「白き猫」
ヒシダシュンソウノシロキネコ
指定区分 市有形文化財(1968・11 指定)
員数一点 制作年代 明治34年(1901)
所在地飯田市追手町2-655-7 所有者春草会(飯田市美術博物館寄託)
明治の日本画壇にあって、新しい日本画の創造に生涯を捧げた菱田春草の作品。明治34年9月、春草は飯田に帰省しているが、本作はこの際に飯田学校の同窓生に請われて制作されたものである。上方に配された梅樹は輪郭線のない没骨の描法で描かれ、白猫は胡粉の濃淡によって立体的に表現されるなど、この時期に春草が試みていた没線主彩の技法が用いられている。
データ番号【タ−a-01】 索引【タ】

立石寺の梵鐘
リッシャクジノボンショウ
指定区分 市有形文化財(1971・3 指定)
員数一口 制作年代 嘉吉3年(1443)
所在地飯田市立石140 所有者立石寺
 立石寺山門楼上に懸かる梵鐘。竜頭は両頭式、茸形の乳は乳の間四区に四段四列に配する。撞座は八葉の蓮華文を陽鋳する。
 鐘銘により、嘉吉3年(1443)はじめは三河国(愛知県)設楽郡の岩倉大明神の鐘であったことが知られる。のち文明元年(1469)に遠州引佐郡(静岡県浜松市)の安楽寺に移り、文亀元年(1501)に立石寺に納まった。
データ番号【タ−a-02】 索引【タ】

定継寺の雲板
ジョウケイジノウンパン
指定区分 市有形文化財(1971・3 指定)
員数一口 制作年代 永享2年(1430)
所在地飯田市龍江2372 所有者定継寺
 雲版は、禅宗寺院において僧侶の起床、食事その他の合図に使用する梵音具。輪郭を雲形につくることからその名で呼ばれる。本作は鋳銅製で両面に撞座を配する雲版で、頂部は幅の広い花先形をなし、身部は左右に蕨手形の太い刳り込みをつくり、下方2箇所に切り込みを付ける。中央下方に八葉複弁の撞座を鋳出している。周縁には断面半円形の縁、その内側に一条の子線をめぐらせ、2個ないし3個の丸鋲の文様を11カ所に散りばめる。表面吊環穴下および撞座の左右に「今田郷東陽山定継禅寺常住/永享庚戌九月中休/住持比丘正護置之」と陰刻される。
データ番号【タ−a-03】 索引【タ】

法全寺の梵鐘
ホウゼンジノボンショウ
指定区分 市有形文化財(1971・3 指定)
員数一口 制作年代 永享11年(1439)
所在地飯田市千代3268 所有者法全寺
 法全寺山門楼上に懸かる梵鐘。竜頭は両頭式で、茸形の乳は乳の間四区に四段四列に配する。撞座は八葉の蓮華文を陽鋳する。もとは遠江国豊田郡(静岡県)の新善光寺の什物で、永享11年(1439)に藤原俊次の手により鋳造されたことが鐘銘によって判明する。いかなる経緯で伊那谷にもたらされたのかは定かでないが、天竜川下流域との交流の様子がわかる貴重な証左である。鋳造を取り仕切った藤原俊次は大和葛城下田(奈良県香芝市)を拠点とした鋳物師の一党であることが知られる。
藤原姓を冠する鋳物師の梵鐘は、開善寺旧蔵の上伊那郡高遠町・桂泉院の梵鐘(長野県宝 文和4年 1355 藤原朝長銘)、高森町・安養寺旧蔵の諏訪市・温泉寺の梵鐘(長野県宝 永享2年 1430 藤原朝次銘)など、長野県内にいくつか遺されており興味深い。
データ番号【タ−a-04】 索引【タ】

尾林古窯の狛犬
オバヤシコヨウノコマイヌ
指定区分 市有形文化財(1972・5 指定)
員数三体 制作年代 慶長14年(1609)
所在地飯田市追手町2-655-7 所有者飯田市美術博物館
 3体のうち2体は飯田市千代尾林神社の末社金山彦神社に奉納されたもの。3体とも耳を欠損し、うち2体は両前足も欠失する。背中には唐草風の巻毛を線刻する。このうちの1体には「慶長拾四年六月日九右衛門きしん」との彫銘があり、長野県内最古の紀年を持つ作例と考えられている。尾林の窯跡出土の陶片の編年との隔たりもなく、長野県内最古の近世窯として知られる尾林古窯の起源を探るうえでも注目される。一対の狛犬と考えられてきたが、新たに1体が確認されたことや、相貌の独特な造りはただちに狛犬とは断じがたい要素でもある。

<参考文献>
『長野のやきもの』(愛知県陶磁資料館編、1997年)
データ番号【タ−a-05】 索引【タ】

千体仏観音堂
センタイブツカンノンドウ
指定区分 市有形文化財(1974・7 指定)
員数一棟 制作年代 
所在地飯田市上飯田6728 所有者阿弥陀寺
宝形造瓦葺の二間×二間、四方に濡れ縁がある向拝付の小堂である。飯田城主脇坂安政が寛文12年(1672)に父安元の菩提を弔うため建てたものである。正面にみえる蟇股や木鼻、桟唐戸の花狭間に江戸時代前半の古い様式が残っている。この堂が建立された寛文12年に脇坂氏が播磨竜野に転封になっていることから脇坂氏が関わった最後の建築物である。
データ番号【タ−a-06】 索引【タ】

鳩ヶ嶺八幡宮本殿
ハトガミネハチマングウホンデン
指定区分 市有形文化財(1976・11 指定)
員数一棟 制作年代 
所在地飯田市八幡町1999 所有者鳩ヶ嶺八幡宮
三間社流造、極彩色、銅板葺。柱間は正面3間・側面2間で、切妻造りの屋根とし、母屋の前に1間通りの庇をつけて向拝としている。神社の創建は重要文化財誉田別尊坐像が安置されていることから鎌倉時代までさかのぼり得るが、本殿に飯田城主脇坂氏の紋があることや脇坂安村が建立したとする棟札があることから、建築年代は明らかである。江戸時代中期の様式の社殿がよく保存されている。
データ番号【タ−a-07】 索引【タ】

釈迦涅槃像
シャカネハンゾウ
指定区分 市有形文化財(1978・12 指定)
員数一躯 制作年代 江戸時代
所在地飯田市座光寺 所有者元善光寺
両肩を衣で覆い右臂先を露わにし右手枕で右脇を下横たわる、釈迦入滅の場面をあらわす涅槃像。元善光寺の宝物殿に安置される。抑揚に富んだ衣摺表現や整った相好をみても高い技量を持った仏師の手によるものと思われるが、全般に硬さがみられ、やや形骸化した感がある。中世まで遡るものではないが、涅槃像のうち彫像は未だ報告が少なく平安期まで遡るものも確認されていないこともあり、希少な作例である。
データ番号【タ−a-08】 索引【タ】

白山社随身門
ハクサンシャズイジンモン
指定区分 市有形文化財(1985・11 指定)
員数一棟 制作年代 文政11年(1828)
所在地飯田市滝ノ沢6684 所有者白山社
 重要文化財の奥社本殿をもつ神社の里宮で、里宮の本殿は諏訪大社上社本宮の宝殿を移築したものである。
 随身門は入母屋造、桟瓦葺の三間一戸楼門で、屋根の正面に軒唐破風をつけている。建築年代に関する史料は不明であるが、文政11年(1828)の造営と伝えられる。通路左右にある柱上部の木鼻は琴高・王子喬などの仙人彫刻とし、天井には十二支が刻まれている。また、羽目には竜・唐獅子・鷹などの彫刻が付けられている。そのほか、貫・尾垂木などには地紋彫を施し、兎ノ毛通は天女の彫刻とするなど、江戸時代後期から幕末に至る彫刻装飾多様の楼門を代表する建築である。
データ番号【タ−a-09】 索引【タ】

飯田城桜丸御門
イイダジョウサクラマルゴモン
指定区分 市有形文化財(1985・11 指定)
員数一棟 制作年代 宝暦4年(1754)
所在地飯田市追手町2丁目678 所有者長野県
飯田城桜丸跡に建つ長野県合同庁舎の南側にあり、飯田城関係の建築物としては当初位置に現存する唯一の門で「赤門」の名で親しまれる。
 この門は、宝暦四年に再建された建物で、それまであった門は、家老安富家に移築され、明治4年(1871)には黒田の斎藤家に、さらに大正3年(1914)に経蔵寺(上郷別府)に移築され現存する。この旧門は17世紀中期の建築と推定される。
 門は間口7.28bの規模の三間一戸、入母屋造、桟瓦葺の建物で、番所が脇に付属している。全体を弁柄塗(現在はペイント塗)としているので、赤門とよばれるようになったとみられる。屋根の鬼瓦に刻まれる梅の文様「向梅」は藩主堀氏の定紋である。
 この門の特徴は、全体が弁柄塗である点、番所を門と別屋根で作っている点にある。
データ番号【タ−a-10】 索引【タ】

耕雲寺の羅漢門
コウウンジノラカンモン
指定区分 市有形文化財(1991・9 指定)
員数一棟 制作年代 
所在地飯田市座光寺1708 所有者耕雲寺
 上層の建ちの高い二重門で、下層は漆喰塗り、アーチ型通路の龍宮門形式である。龍宮門形式の山門は飯田市内では他に例のない独特のものである。上層の組物や彫刻など全体的に意匠に優れ、江戸時代文化・文政期以降の特色を良く示している。上層須弥壇には、木造阿弥陀仏座像・十六羅漢立像・四天王が安置されており、通称「羅漢門」と呼ばれる所以である。建築した大工棟梁は不明であるが、様式から三河系の工匠によると考えられる。
データ番号【タ−a-11】 索引【タ】

毛賀諏訪神社本殿
ケガスワジンジャホンデン
指定区分 市有形文化財(1992・2 指定)
員数一棟 制作年代 
所在地飯田市毛賀885 所有者毛賀諏訪神社
健御名方命を祀る社で、創立は不詳である。本殿は一間社流造、銅板葺(元こけら葺)で間口五尺三寸の中規模な社殿である。棟札から文化12年の再建であることがわかる。地元の大工による建築であるが、初代立川和四郎富棟、二代和四郎富昌のいずれかに学んだものとみえ、木割りや彫刻に立川流の技法が見られる。向拝正面の虹梁上に龍、木鼻に象・唐獅子、扉脇に竹・亀、松・鶴、扉上に梅、脇障子に牡丹・唐獅子、唐松・唐獅子の彫刻をつける。向拝と母屋の繋ぎは伝統的な海老虹梁としているが、その上の手挟みは牡丹の冠彫りとなっており凝っている。
データ番号【タ−a-12】 索引【タ】

柏心寺山門
ハクサンジサンモン
指定区分 市有形文化財(1993・9 指定)
員数一棟 制作年代 
所在地飯田市箕瀬町1-2464-1 所有者柏心寺
本寺は慶長2年(1597)に現在地に移築されたといわれ、本堂は堂内の華鬘銘から寛文10年(1670)頃の建造と推定される。山門はこの本堂より古いとみられ、一間四脚門・切妻造二軒繁垂木・桟瓦葺(元こけら葺)である。親柱は円柱、控柱は大面取角柱、軸部は頭貫・実肘木・板かえる股・虹梁などにより仕組まれ、特に頭貫木鼻は旧小笠原家書院(三穂伊豆木)玄関と共通した形式を持つ。三花懸魚も当初のものとみられ、鰭は牡丹の浮彫彫刻であるなど、桃山風の様式でまとまっている。寛文年間の建築は飯田藩領内には比較的多いが、こうした寛文期の建設ラッシュ以前の江戸時代前期の建築として貴重である。
データ番号【タ−a-14】 索引【タ】

木炭棺
モクタンカン
指定区分 市有形文化財(1994・2 指定)
員数一基 制作年代 
所在地飯田市上郷別府2428-1 所有者飯田市上郷考古博物館
黒田垣外遺跡で調査された弥生時代後期(約1800年前)の方形周溝墓の埋葬施設。調査後、上郷考古博物館に移設された。方形周溝墓は14.8m×12.8mの規模で、埋葬施設は周溝内中央やや北西寄りに位置し、2.6m×2.2mの長方形の土壙内部で確認された。この埋葬施設は、板状の炭化材が長方形に残存し、内部には副葬品は無く、骨片が10点程度出土している。
データ番号【タ−a-15】 索引【タ】

経蔵寺山門
キョウゾウジサンモン
指定区分 市有形文化財(1994・2 指定)
員数一棟 制作年代 
所在地飯田市上郷別府1768 所有者経蔵寺
飯田城桜丸の門として建立され、宝暦年間に現在の赤門(市有形文化財)が建てられるにあたり他所に移築され、その後、経蔵寺の山門となった。門は薬医門の様式で、懸魚は中央に一つ下げられる拝懸魚で、上部には六弁花の彫刻があり、両側には鰭が付飾されている。板唐戸には細長く直線的な八双金具と丸みが乏しく隆起の少ない乳金具が打たれている。安土桃山時代の遺風をよく伝える建築物である。
データ番号【タ−a-16】 索引【タ】

鳩ヶ嶺八幡宮の獅子頭
ハトガミネハチマングウノシシガシラ
指定区分 市有形文化財(1995・10 指定)
員数一頭 制作年代 室町時代
所在地飯田市追手町2-655-7 所有者鳩ヶ嶺八幡宮(飯田市美術博物館寄託)
 当地域は瑠璃寺(高森町大島山)を嚆矢とする優填王の獅子引きによる獅子舞が今も盛んである。鳩ヶ嶺八幡宮の蔵する獅子頭はそれらとは系統の異なるいわゆる祈祷獅子の類で、「青獅子」と呼ばれ雨乞いに用いられたといわれる。その形状は、顎部が長く前方に伸び、眼球の瞳の部分が前方へ飛び出ている。これに立体感のある眉間の皺が相まって特徴ある表情を作り出している。用途からしても度々補修が必要とされたことが想像されるが、中世に遡る獅子頭の特徴を損なうものではない。

<参考文献>
『獅子舞-ユーラシアから伊那谷へ-』(飯田市美術博物館編、2010年)
データ番号【タ−a-17】 索引【タ】

神之峰久堅神社境内天神社本殿
カンノミネヒサカタジンジャケイダイテンジンシャホンデン
指定区分 市有形文化財(1995・10 指定)
員数一棟 制作年代 
所在地飯田市上久堅8168 所有者久堅神社
久堅神社は、神之峰の頂上に鎮座する神社で、境内天神社はそのすぐ脇に鎮座している。もとは栗林に祀られていたが、大正11年に現在地に移転されたといわれる。本殿の建築年代は、残存する木札銘や上棟に使われた木槌銘より享保16年(1731)と考えられる。構造は、一間社流造り・こけら葺きで、母屋、向拝ともに様々な細工が施されている。主要な彫刻としては、蛙股内部の梅の薄肉彫り彫刻、手挟みの梅の篭彫り彫刻等がある。伝統的な技法と新しい技法を併せ持つ市内でも貴重な江戸中期の建築の一つである。
データ番号【タ−a-18】 索引【タ】

旧飯田城の八間門
キュウイイダジョウノハッケンモン
指定区分 市有形文化財(1998・11 指定)
員数一棟 制作年代 江戸時代
所在地飯田市松尾久井2595-1 所有者木下昭郎
もとは飯田城二の丸入口にあった八間門で、明治4年(1871)に松尾の個人宅へ移築された。
門は切妻造、桟瓦葺、桁行五間、梁行四間、二階建で、中央に大きな扉、左右に潜戸のつく三間一戸櫓門である。二階は扉口より前面に張り出し、石落としを設けている。また二階を支える梁の両端には、塀か櫓が接続していた痕跡がみられる。現在は一階両側に長屋が付属するが、江戸時代前期に画かれた飯田城絵図には、土橋を渡った両側石垣の上に櫓門が描かれている。
データ番号【タ−a-19】 索引【タ】

運松寺鐘楼門
ウンショウジショウロウモン
指定区分 市有形文化財(1998・6 指定)
員数一棟 制作年代 
所在地飯田市鼎名古熊1914 所有者運松寺
運松寺は、小笠原貞宗が禅宗寺院として開基し、慶長6年(1601)年法誉伝策により浄土宗として開創された寺である。明治2年伽藍を焼失するが、鐘楼門は類焼を免れた。この鐘楼門の建立年代は、棟札より享保20年(1735)と考えられ、大工清水武平とその弟子達によって建てられた事が記されている。構造は一間鐘楼門、切妻造、本瓦葺であり、間口4.27m、奥行2.48mの2階建てである。素朴な建築であるが、虹梁の絵様や蛙股の形式は18世紀の標準的な様式をよく現している。
データ番号【タ−a-20】 索引【タ】

長石寺本堂
チョウセキジホンドウ
指定区分 市有形文化財(2000・11 指定)
員数一棟 制作年代 
所在地飯田市時又 所有者長石寺
長石寺は真言宗智山派の寺院で、承久2年(1220)に小笠原長清が石海和尚を開山として創設したと伝えられる。本堂は、明治3年(1870)に火災に遭い再建された建物である。方三間、入母屋造り、桟瓦葺き、正面に一間の向拝(軒唐破風付き)を付けており、天井には外陣・内陣ともに格天井で花鳥風月の絵が描かれている。木取帳・請負証文から立川冨重(3代)と脇棟梁立川亀吉が建築にあたったことが明らかになっており、木鼻の唐獅子・象、手鋏みの牡丹の籠彫り、繋ぎ虹梁の龍の彫刻など、向拝まわりに立川流の建築彫刻の特色が顕著に表れている。立川和四郎の直系が請け負った規模の大きな建築としては最後の作品であり、立川流工匠の飯田における活動の重要な位置にあり、技術的・学術的価値が高い。
データ番号【タ−a-21】 索引【タ】

絹本著色聖徳太子絵伝
ケンポンチャクショクショウトクタイシエデン
指定区分 市有形文化財(2001・8 指定)
員数五幅 制作年代 鎌倉時代
所在地飯田市追手町2-655-7 所有者飯田市美術博物館
 聖徳太子の生い立ちを絵画化した聖徳太子絵伝は、太子信仰喧しい鎌倉〜室町時代に数多く描かれた。本図は、現状で5幅からなる。損傷が甚大で図様の把握は困難であるが、赤外線照射撮影によって前生譚から30歳代の事蹟まで50におよぶ場面が確認できた。40歳代以降の事蹟場面が殆ど欠落しているので、最低1幅を欠いた零本と考えられる。各幅ごと年代の近い事蹟が概ねまとまり、第1〜3幅まではほぼ上から下へ、第4幅目は下から上へと説話が進行する。第5幅目は欠損部分が多く場面展開の法則を見いだしがたい。長身痩躯の人物や緻密に構成された建造物の描写に絵師の練達した技量が窺える。
以上の特徴は、洗練された筆致で構図に古様さを残す東京・静嘉堂文庫美術館4幅本や大阪・四天王寺6幅本など、南都絵所系の作例を想起させる。制作年代も四天王寺本が描かれた元亨3年(1323)からあまり隔たるものではなかろう。平成5年に宮ノ上太子堂(飯田市宮ノ上)から当館に寄贈された。
データ番号【タ−a-22】 索引【タ】

伊豆木天満宮神楽殿
イズキテンマングウカグラデン
指定区分 市有形文化財(2003・7 指定)
員数一棟 制作年代 明治11年(1878)再建
所在地飯田市伊豆木619-2 所有者伊豆木天満宮
この神楽殿は、伊豆木天満宮社殿からゆるやかに傾斜した境内の東端にあり、棟札から明治11年に再建されたことがわかる。規模は間口6間、奥行3間半で、屋根は切妻造り、桟瓦葺きとなっており、向かって右側には約1坪の太夫座(下座)が設けられている。吹き抜け部分は、間口4間、幅1間半と狭く、ほとんどの部分が中2階の楽屋となっており、舞台の吹き抜け部分を見上げるとみごとに編まれた竹木舞が見える。この舞台では、伊豆木人形芝居が上演され、かしらは今も残されている。また床構造などから、この舞台は人形舞台と歌舞伎舞台の併用舞台であると考えられる。舞台前のゆるやかに傾斜した観客席は、野芝がぎっしりと生えそろい、芝居を見るのにも座るのにも理想的な観覧空間を作り出している。
データ番号【タ−a-23】 索引【タ】

白山社奥社幣殿・拝殿、随身門
ハクサンシャオクシャヘイデン・ハイデン、ズイシンモン
指定区分 市有形文化財(2003・12 指定)
員数幣殿・拝殿1棟 随身門1棟 制作年代 享保16年(1731)、安永4年(1775)
所在地飯田市上飯田(風越山山頂付近) 所有者白山社
奥社幣殿・拝殿は、風越山山頂付近にある白山社奥社本殿(重要文化財)に接続した建物であり、随身門はその石段下30mに位置する。拝殿は、間口3間、奥行1間半の建物で、幣殿は間口2間半、奥行8尺である。拝殿・幣殿境には、内法より上に虹梁を架け、中央に蛙股を置く。蛙股内部に凡字(キャ・十一面観音)を陽刻し金箔押ししている。随身門は、三間一戸、切妻造、鉄板葺の門である。円柱の正面には内側を向いた唐獅子の彫刻木鼻を付け、通路上の虹梁の中央に、正面は唐松・鳩の彫刻蛙股、背面側は木蛙股を置く。建築年代は、幣殿・拝殿は棟札の内容から享保16年(1731)である。随身門は建築年代に関する史料が不明であるが、内側を向いた唐獅子の彫刻木鼻は、安永4年に伝馬町の細野文五郎藤原輝哲によって建てられた開善寺二の門(惣門)に似ており、本殿修理の墨書にも安永4年のものがあるので、このときに随身門が建てられたと考えられる。
データ番号【タ−a-24】 索引【タ】

鬼神面
キシンメン
指定区分 市有形文化財(2006.05.17 指定)
員数一面 制作年代 鎌倉〜南北朝時代
所在地飯田市南信濃木沢919番地 所有者木沢八幡神社
 遠山谷の惣鎮守であったともいわれる木沢の八幡神社に伝わる古面である。目尻の下がった大きな目、鼻筋は細く幾分左に歪み、前歯を見せる。額や目元、口元に深く皺を刻み、眉や顎に植毛の穴が穿たれる。彩色はない。裏面の鑿痕は粗く、側辺部の四角の紐穴に特徴がある。  
 奇怪な相貌でありながら、おおらかな作風を示し、鎌倉時代から南北朝時代の作と推測できる。したがって、長野県最古の古面として貴重であり、国重要無形文化財に指定される遠山霜月祭を伝える神社にあって、その祭の起源を考えるうえでも重要である。
 なお、本面は、同神社の保有する遠山霜月祭の面が在銘等からみると元和2年(1616)以降、明治時代の作(1面のみ昭和28年)であるのに比較して格段に古く、地元では「古代面」と称してきた。本面が霜月祭の成立とどのように関連したかは不明である。
データ番号【タ−a−26】 索引【タ】

鬼神面
キシンメン
指定区分 市有形文化財(2006.5.17 指定)
員数一面 制作年代 鎌倉〜桃山時代
所在地飯田市八幡町1999番地 所有者鳩ヶ嶺八幡宮
 眉の上に角状の突起が7本あり、丸い目と、先端がつぶれた大きな鼻をもち、口の上下に牙がのぞく。頬と顎に三角波を刻み、頭部には植毛の痕跡を残す。全体に荒彫りで黒色を呈し、重量感にあふれている。材質は重量感のある広葉樹が使用されている。
 本面は、鎌倉時代から桃山時代の作とみられ、明治初期の廃仏毀釈まで鳩ヶ嶺八幡宮に付属した神宮寺において、追儺行事ないしは修正会に使用された可能性が考えられる。中世に遡る古面としても、神宮寺の数少ない遺物としても貴重である。
データ番号【タ−a−27】 索引【タ】

菩薩面
ボサツメン
指定区分 市有形文化財(2006.5.17 指定)
員数一面 制作年代 室町時代
所在地飯田市八幡町1999番地 所有者鳩ヶ嶺八幡宮
 面長で目鼻口の各部位は小ぶりにあらわされ、穏和な印象を与える。髻はなく、天冠台は上から二段の列弁・紐一条・連珠・紐一条を彫出し、髪際は束目をあらわし毛筋を線刻する。正面の列弁には別材の宝冠をつけたのか孔を穿つ。立体感に乏しい毛筋の彫り口や精気を欠いた相好など造形的には妙味を欠くが、室町時代の作と考えられる。
 本面は、鳩ヶ嶺八幡宮に明治初期まで付属した神宮寺に所属し、来迎会などの行道面として使用されたと推測できる。室町時代の古面であるとともに、当地方にもそうした仏教行事があったことを裏づける資料として貴重である。
データ番号【タ−a−28】 索引【タ】

福島家住宅
フクシマケジュウタク
指定区分 市有形文化財(2005.8.4 指定)
員数二棟 制作年代 江戸時代
所在地飯田市本町4−53 所有者福島 稔
 福島家住宅は飯田城下町殿町の一画にある飯田藩士の住居で、下見板張の土塀と棟門形式の表門を構え、前庭の奥に、軒の低い切妻妻入の屋根が見え、武士の住まいの景観をよく留めている。主屋の建築年代は19世紀前期と推定されるが、柱の中には18世紀中期以前に遡るような風格をもった「釿はつり」の柱が10本含まれており、江戸時代中期以前の武士住宅の様子を伺うこともできる。主屋は福島家に伝わる台帳や和田家に伝わる絵図、熊谷家の『家の記』などと類似する間取りであり、諸記録とも一致している。飯田藩で門・塀・主屋が揃って現地に残る唯一の武士住宅遺構であり、江戸時代の飯田藩の実態を知る上で、なくてはならない貴重な文化財であり、市有形文化財として妥当といえる。
データ番号【タ−a−29】 索引【タ】

大名行列
ダイミョウギョウレツ
指定区分 市無形文化財(1968・11 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市本町3丁目 所有者大名行列保存会
 大宮諏訪神社の祭礼として、申寅年の3月末に開催される式年大祭である。江戸時代には、飯田城下町18ヶ町の祭礼として、各町内がそれぞれ本屋台・囃子屋台・旗屋台を曳きまわしたが、現在は各町内や近隣地域から参加する獅子舞・囃子屋台などや、県外から誘致された踊りが賑やかに市街地を練り歩く。
 大名行列は、東野の大獅子と並んで人気の高い出し物で、本町3丁目が担う。同町内では慶応2年(1866)に火災で奴屋台を失ったため新たな出し物を探していたところ、薄井龍之の斡旋で大名行列の道具を入手し、技芸を習得して明治5年(1872)から始めたものである。
データ番号【タ−b-01】 索引【タ】

今田人形芝居
イマダニンギョウシバイ
指定区分 市無形文化財(1990・11 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市龍江3383 所有者今田人形保存会
今田人形は、三人遣いの人形浄瑠璃である。その始まりについて「当村操始之事」と題する古文書には、一人遣いの時代にあたる宝永元年(1704)と記されている。戦後の危機を脱し、現在ではもっとも後継者にも恵まれ、活発な活動を続けている。今日、人形の操法は淡路人形座の指導によるもので、繊細な心情描写を得意とする。平成2年から始めた和蝋燭による独自の演出に人気がある。三番叟は文楽の二人三番叟をアレンジしたものである。
 かしらは90頭を保有する。
データ番号【タ−b-02】 索引【タ】

黒田人形芝居
クロダニンギョウシバイ
指定区分 市無形文化財(1994・2 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市上郷黒田2155 所有者黒田人形保存会
黒田人形は、三人遣いの人形浄瑠璃である。その始まりは一人遣い時代の元禄年間(1688〜1703)といわれ、文政年間以降明治30年代までに淡路の人形遣い吉田重三郎、大坂の人形遣い桐竹門三郎・吉田亀造・吉田金吾らを師匠に迎えた歴史をもつ。特に前三者は黒田に定住して当地に没し、その墓が太念寺にある。また、諏訪神社境内にある人形舞台(国有形民俗文化財)は桐竹門三郎らの設計指導によると推測されている。
 黒田人形でとりわけ注目できるのは、三番叟をはじめ人形の操法に、「手」とよぶ古い型を30近く伝える点である。頭・手・足の動きから連続動作まで、それぞれの型には「くり頭」「弓張り」「なげぶし」などの名前が付き、「膝稽古」によって型の習得に努めていたという。かつては「明神講」や青年会によって担われてきた。
人形のかしらはおよそ100頭を有する。
データ番号【タ−b-03】 索引【タ】

操人形「老女形の首」(黒田人形)
アヤツリニンギョウロウジョギョウノカシラ
指定区分 市有形民俗文化財(1994・2 指定)
員数一個 制作年代 元文2年(1737)
所在地飯田市上郷飯沼3118 所有者黒田人形保存会
現在も上演を続ける黒田人形座には、近年新作も含めて約100のかしらがある。そのうち本資料は頬のやや痩けた初老の女性をかたどった小振りなかしらで、内部に「元文貳丁己二月 山城太野村 竹本松穂作」の墨書銘がある。在銘のかしらとしては全国でも最古である。
データ番号【タ−c-01】 索引【タ】

菱田春草筆「武具の図」
ヒシダシュンソウヒツ ブグノズ
指定区分 市有形文化財(2011.7.20 指定)
員数1面 制作年代 明治27年(1894)
所在地飯田市追手町2-655-7 所有者春草会
データ番号【タ−d-13】 索引【タ】

菱田春草筆「霊昭女」
ヒシダシュンソウヒツ レイショウニョ
指定区分 市有形文化財(2011.7.20 指定)
員数1幅 制作年代 明治35年(1902)
所在地飯田市追手町2-655-7 所有者飯田市美術博物館
データ番号【タ−d-14】 索引【タ】

観耕亭碑
カンコウテイヒ
指定区分 市史跡(1968・11 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市追手町 所有者長姫神社
 碑は飯田城の本丸址、天竜川・松川・伊那山脈が一望できる場所にあり、高さ105p、幅39pの粘板岩製の碑で自然石の台上に立つ。本文は1行30字づめ12行で、この地にあった観耕亭の名の由来と藩主の徳をたたえる文が記されている。内容の概略は「時の藩主堀親義侯は文武の勉強に志し政に励み、折を見ては城外に出て山水を賞することを楽しみとしていた名君である。しかし、外出すると働いている農民の邪魔になる。そこで城中に小亭を作り、そこから城外の農民たちが農耕にいそしんでいるのを眺め楽しんだ。賢者の楽と言うべく、まさに仁政の基とすべきである」という意味が書かれている。「観耕亭記」の篆額は安藤正宜の筆によるもので、碑文は昌平学教官の安積信(艮斎)の作、高橋豊珪の書によるものである。碑文の内容・筆跡ともすばらしい古碑である。
データ番号【タ−d-01】 索引【タ】

日樹上人の墓
ニチジュショウニンノハカ
指定区分 市史跡(1968・11 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市羽場権現 所有者村沢誠
 武蔵国池上本門寺の住職日樹は日蓮宗不受不施派を篤く信奉していたため、時の幕府より弾圧を受け、寛永7年(1630)信州飯田に流され、翌8年この地で没した。日樹の13回忌の寛永20年(1643)に草庵跡に行円院日利等によって建てられたのがこの五輪塔である。安土桃山時代の影響を受けた大きい五輪塔で、当時の様式をよく伝えており、仏教史上からも石造文化史上からも意義深い建造物である。
データ番号【タ−d-02】 索引【タ】

塚原二子塚古墳(塚原1号墳)
ツカハラフタゴヅカコフン
指定区分 市史跡(1968・11 指定)
員数一基 制作年代 古墳時代
所在地飯田市桐林3046 所有者林久直ほか
桐林の南西部、駒澤川と臼井川に挟まれた台地上に立地する。かっては28基の古墳が密集していたが、現在は前方後円墳の塚原第1号古墳(二子塚・市史跡)を主墳として7基が形をのこす。塚原二子塚は全長76b、前方部高さ6.5b、後円部高さ6bを測る。竪穴式石室を推測させるが不明。形象・円筒埴輪片がある。塚原3号・鏡塚古墳(塚原4号)・鎧塚古墳(塚原5号)は帆立貝型古墳で、古墳群からは畿内政権とのつながりを示す鏡鑑・武具・馬具類の良品が多数出土しており、5世紀後半に当地方の中核を担った集団の墓域を構成している。
データ番号【タ−d-03】 索引【タ】

飯田藩主堀家の墓所
イイダハンシュホリケノボショ
指定区分 市史跡(1971・3 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市上飯田4166 所有者長久寺
長久禅寺の裏手墓地の突き当たりに、小さな門が立ち、白壁の築地塀に囲まれてある。正面に「禅林院殿前和州太守大道休也大居士」と刻まれた全高約3b、塔身の高さ135aの笠塔婆が立つ。これは飯田城六代目堀親蔵の墓碑で、堀家中興の主といわれる7代目堀親長の建立である。この右手にほぼ同じ大きさの笠塔婆が2基横に並んでおり、左側は「龍研山道義大居士」とある11代親義(研山)の墓碑、その右が「荊岳院殿前和州太守玉眞常光大居士」とある9代親民の石碑である。
 これら藩主の墓碑三基のもとには、堀氏の妻や夭折した若様などの墓が多くある。西の隅近くには高さ1.4bの花崗岩の自然石3基があり、初代親昌、2代親貞、4代親賢の荼毘の跡である。
 なお、他の飯田藩主堀家の墓は東京都渋谷区東江寺にある。また、長久禅寺の堀家墓地の東側に前飯田藩主の脇坂家の墓地があり、脇坂安元の五輪塔が安置されている。
データ番号【タ−d-04】 索引【タ】

神の峰城跡
カンノミネジョウアト
指定区分 市史跡(1972・5 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市上久堅8166-3 所有者久堅神社
天竜川の東、伊那山地の南西側丘陵上に見える独立峰、海抜771bに立地する。主郭・二の郭・三の郭・北小屋・南小屋・空堀等々の縄張りがみられる。主郭は地元で本丸と呼ぶ中央部に位置し、東西40b、南北20bで、NHKのテレビ塔が建っている。二の郭は出丸といわれる所である。
 神之峰城は床山城ともよばれ、諏訪氏の一族である知久氏の居城である。鎌倉時代は知久本郷(下久堅知久平)に住み、文亀年間(1501〜04)頃に世の戦乱に対応して、神之峰城に移り住んだと推測されている。天文22年(1554)に武田信玄の伊那攻略にあい落城した。
データ番号【タ−d-05】 索引【タ】

白隠石
ハクインセキ
指定区分 市史跡(1972・11 指定)
員数一基 制作年代 
所在地飯田市竹佐344-16 所有者山本竹佐区
「南無観世音」と刻まれたこの石碑は、台石の上に高さ1.9m、幅1.3mの花崗岩の自然石を用いたもので、左下に刻まれた「白隠書」でわかるように江戸時代の禅僧白隠禅師の手によるものである。白隠慧鶴は貞享2年(1685年)駿河国原宿(沼津市原)の生まれで15歳の時出家した。その後全国を行脚修行し禅を人々に説き「臨済宗中興の祖」と位置づけられる。宝暦7年(1757年)この地方に疫病が流行した時、73歳の白隠禅師は上川路の開善寺にしばらく足をとどめていた。それを聞いた竹佐の村人は白隠に揮毫をお願いして、疫病の退散を祈願した。尻詰まりの五文字と斜めに傾いた名前の配置から、用意されていた自然石に即座に書かれたことが伺われるが、豪放生気・溌剌慈悲の気持ちが込められた文字は白隠禅師の人柄を表している。地元では白隠講をつくり、家内安全・無病息災・子孫繁栄を祈願し、春と秋にお祭りをしながら大切に守り続けている。江戸時代の建立から約250年間、現在地から60mの場所で祀り続けられてきたが、道路改良のため平成16年(2004年)にこの地に移転した。
データ番号【タ−d-06】 索引【タ】

八幡の道標
ヤワタノドウヒョウ
指定区分 市史跡(1985・6 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市八幡町1971-1 所有者八幡区
下条街道と秋葉街道が分かれる鳩ヶ嶺八幡宮の前に立つ、花崗岩の四角柱である。正面には「右 志もぢょう 左 あきは道」、右側には「宝暦十辰二月廿四日」左側に「宮田 當町 講中」の印刻がある。鼎下茶屋の道標と同じものであり、当時の交通史上貴重な資料である。
データ番号【タ−d-07】 索引【タ】

下茶屋の道標
シモチャヤノドウヒョウ
指定区分 市史跡(1985・6 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市鼎下茶屋994-6 所有者飯田市(管理者 牧野忠夫)
この道標は、地上に高さ63p、25p×21pの花崗岩の四角柱で、正面に「右 八王た与あきは 左 いくまみち」、右側面「宝暦十辰年二月廿四日」、左側面「宮田講中 当村新井六左衛門 茶屋町講中」と印刻されている。遠州街道と伊久間街道の分岐点に建てられたものである。八幡の道標と同じものである。
データ番号【タ−d-08】 索引【タ】

知久平城跡
チクダイラジョウアト
指定区分 市史跡(1996・10 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市下久堅知久平ほか 所有者宮内通美ほか2名
中世から近世にかけて天竜川東岸地域一円を支配した知久氏の居城。城跡は、東西450m、南北750mの規模を測る平山城で、段丘の端部を利用して本郭を中心に複数の郭が連続し、空堀・土塁等の諸施設が各所に残存している。知久氏は鎌倉時代からこの地の領主として戦国時代に至り、武田信玄の伊那郡侵攻に最後まで抵抗するが天文23年(1554)に破れて一時没落する。その後、天正10年(1582)の武田家滅亡後は徳川支配地となり、知久平城は菅沼定利の居城となるが、菅沼氏の国替えにより天正16年(1588)廃城となる。
データ番号【タ−d-09】 索引【タ】

水城の水佐代獅子塚古墳
ミズキノミサジロシシヅカコフン
指定区分 市史跡(2000・11 指定)
員数一基 制作年代 
所在地飯田市松尾水城 所有者水城区ほか
本古墳は前方部を南西に向けた前方後円墳であるが、後円部の一部が旧状を保つとみられるものの、周囲は宅地・道路により削平されており、前方部端部など大きく形を変えている。そのため規模は特定できないが、残存状況から全長53〜57m、後円部径33m、前方部前端部幅21〜23m、高さは3〜4m程度と推定される。『下伊那史』第二巻によると、石室があり刀が出たとの記載があるが、正式な発掘調査を実施していないため詳細は不明である。後円部では埴輪が採集されている。墳丘上の祠周辺の石には石室石材を転用したとみられるものもあり、これまで横穴式石室とされてきた経過もあるが、墳形や周辺の状況から竪穴式石室の可能性も否定できない。
データ番号【タ−d-10】 索引【タ】

御射山獅子塚古墳
ミサヤマシシヅカコフン
指定区分 市史跡(2003・7 指定)
員数一基 制作年代 古墳時代
所在地飯田市松尾久井284 所有者飯田市
本古墳は前方部を南西に向けた前方後円墳である。古墳の規模は現状で全長約64m、後円部の径32m、前方部前端部幅46m、高さ8m程度で、市内の前方後円墳の中でも大型の部類に入る。一部削平されているが、残存状態は比較的良好である。これまでに正式な発掘調査は実施されていないが、『下伊那史』第二巻によると、かつて横穴式石室があり、周囲の開墾の際に破壊されたとの記載があり、また鏡・土師器・須恵器が出たとされるがこれとの関連は不明である。このため、本古墳についての情報は現時点ではほとんどないが、南側に隣接する茶柄山古墳群は前方後円墳1基を中心とする5世紀後半の古墳群で、発掘調査により馬の埋葬墓が10基確認されたことで、馬生産にかかわる集団の墓地であることが明らかとなっており、この古墳群との密接な関連が想定できることから、当地方の古墳時代における位置づけとしても重要な古墳の一つであるといえる。
データ番号【タ−d-11】 索引【タ】

風越山白山社奥社境内地
カザコシヤマハクザンシャオクシャケイダイチ
指定区分 市史跡(2003・12 指定)
員数 制作年代 
所在地飯田市上飯田 風越山白山社奥社境内地 所有者白山社・丸山享保会
風越山(かざこしやま)は、白山社奥社が鎮座し権現山と呼ばれ、往古より霊山として崇められてきた。白山社奥社は、本地垂迹説から起こった神仏習合の社で、特に本殿は国の重要文化財に指定されている。また、白山社境内周辺一帯は、白山社の中心的な領域であり、そこには宗教的要素を持つ多くの石造物が点在している。こうした石造物は、年代的にはいずれも江戸時代中期以降のものであるが、江戸時代を中心に白山信仰・山岳信仰・庶民信仰がこの地でいかに盛んであったかを知る上で大変貴重な文化財といえる。駐馬巖、自然石と石段、役小角像、燈籠、名号石(六斗石)、金毘羅大権現、弘法大師摩崖像、参道丁石、御手洗鉢、地蔵菩薩像などが点在している。山頂周辺には日夏耿之介(名誉市民)の句碑もある。また、境内地の中心となる奥社には、本殿のほか、幣殿・拝殿、随身門(いずれも市有形文化財)がある。
データ番号【タ−d-12】 索引【タ】

菱田春草筆「帰樵」
ヒシダシュンソウヒツ キショウ
指定区分 市有形文化財(2011.7.20 指定)
員数1幅 制作年代 明治39年(1906)
所在地飯田市追手町2-655-7 所有者飯田市美術博物館
データ番号【タ−e-18】 索引【タ】

羽場の大柊
ハバノオオヒイラギ
指定区分 市天然記念物(1968・11 指定)
員数一本 制作年代 
所在地飯田市羽場町3丁目726 所有者小林源治
モクセイ科の常緑高木で、福島県南部から四国にかけて自生する。長野県内では伊那谷南部と木曽地方にわずか見られる。樹齢は400年以上と考えられており、胸高周囲3.4m、樹高12mを測る。昭和45年春、中央自動車道工事に伴い東方に31m移動し、それ以来現在の位置にある。この木は「下市田のヒイラギ」(県天然記念物)に次いで2番目の大きさを誇っている。
データ番号【タ−e-01】 索引【タ】

龍江大屋敷のイワテヤマナシ
タツエオオヤシキノイワテヤマナシ
指定区分 市天然記念物(1971・3 指定)
員数一本 制作年代 
所在地飯田市龍江9637 所有者中山与平
イワテヤマナシはバラ科ナシ属の落葉高木、東北地方の原産で本州と九州北部に分布している。アオナシ・ミチノクナシ等の呼び名がありこの地方ではシモナシと呼ばれ、龍江・千代・泰阜に見られる。自生か栽培かははっきりしていないが、自生とすればイワテヤマナシの南限として貴重である。胸高周囲2.6m、樹高15m、推定樹齢250年の古木である。
データ番号【タ−e-02】 索引【タ】

正永寺原の公孫樹
ショウエイジバラノイチョウ
指定区分 市天然記念物(1972・5 指定)
員数一本 制作年代 
所在地飯田市上飯田1499 所有者今村光伸
胸高周囲5.8m、樹高40m、推定樹齢450年の雌木で、イチョウの特徴である柱瘤が垂れ下がっている。室町時代にこの地の領主である坂西兵庫由政が正永寺を建立したときに植えたとされる。腐食部分に寄生した植物に混じってイチョウの雄木が成長しているのも珍しい。
データ番号【タ−e-03】 索引【タ】

桜丸の蚊母樹
サクラマルノイスノキ
指定区分 市天然記念物(1971・3 指定)
員数一本 制作年代 
所在地飯田市追手町2丁目678 所有者長野県
イスノキはマンサク科の常緑樹で、この地方には自生しない暖地性の樹である。胸高周囲3.0m、樹高25m、推定樹齢200年ほど。飯田城桜丸の庭園に植えられたものであり、風越焼きの釉薬に使われたとも言われる。葉には虫えいができ、そこから羽虫が飛び立つことから、蚊の生まれる木「蚊母樹」の名前がついたともいわれる。
データ番号【タ−e-04】 索引【タ】


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参考文献/『伊那谷の文化財 - 飯田下伊那の特質を探る -』飯田市美術博物館発行
- WebLibrary Ver0.89 -