田中芳男の生涯
【10~20代】 本草学を学び、幕府に出仕
- 18歳で尾張に出て、名古屋の医師で本草学者の伊藤圭介(1803‐1901)のもとで学ぶ
- 20代の頃、江戸幕府の洋学研究機関である蕃書調所に入り、第2回パリ万国博覧会(1867)に参加
【30~40代】 “日本の博物館の父”、“ミスター博覧会”
- 明治元年(1868)に開成所御用掛となったのち、日本最初の化学研究所である舎密局や大学南校物産局の立ち上げに参加、文部省および農商務省の事務官となり、国内外の博覧会開催に携わった。
- この時期における田中の仕事の蓄積が、のちに東京上野公園の博物館群(国立科学博物館、上野動物園、東京国立博物館)の設立に結実する。
【50代~晩年】 政治家、“博覧男爵”
- 政府官僚を退いてからは、元老院議官、貴族院議員となり、農林水産関係の主要団体(大日本農会、大日本水産会、大日本山林会)の要職を歴任、大正4年(1915)には男爵を授けられた。
「博覧会」と「博物館」
幕府から明治政府の事務官となった田中芳男は、殖産興業推進のため博覧会の開催と博物館の設置に尽力しました。海外での万博体験を重ね、国内の博覧会では主導的な立場で数々の博覧会を手掛けてきました。田中にとっては、従来の日本には存在しなかった「博物館」という全く新しい制度を根付かせることも、殖産興業推進の延長線上にありました。
「知」をプロデュースする
若き日の田中は、国内や西洋由来の穀物、野菜、花などの栽培実験を行う一方、西洋の動植物図の描写法を画工たちに習得させ、知識普及のための動植物の図譜を作成していました。政府官僚になった後も、幕府時代に身に付けた農作物の栽培や普及書刊行の監修のノウハウ等を活かし、指導的な立場から新たな“知”を眼に見えるかたちで次々と生み出していきました。
男爵誕生
田中は、政府官僚時代には博覧会及び博物館の制度を日本に根付かせる最前線に身を置き、官僚を退いてからは貴族院議員となり農林水産関係の主要団体の要職を歴任しました。これらの勲功により、大正四年(1915)にはそれらの勲功により男爵を授けられました。叙爵の対象は主に明治維新の功労者たちを除けば家柄がものをいう制度でした。平民出身の田中は家柄に関わらず叙爵の栄に浴した数少ない事例といえます。
田中芳男が蒔いた、知の種
田中芳男は「鳥なき郷の蝙蝠」つまり、すぐれた人のいないところではつまらぬ者が幅を利かせる」と自身を謙遜していますが、実際には実に多方面にわたって足跡を残しました。それは当時の日本人にとって全く未知の分野の先頭に立ち、手探りで道を切り開く挑戦の日々でもありました。残念ながらその広汎な功績は、後世の各分野の専門家たちの中で「アマチュアの仕事」として埋もれていく運命にありました。しかし、田中が蒔いたさまざまな知の種は、多岐にわたる国家プロジェクトに携わるなかで導入した西洋の学問や思想を、日本の近代化へと結びつける大いなる礎となりました。何よりそれらはすべて、人々の暮らしが豊かになることを誰よりも切望し、奔走し続けた結果だったのです。
田中芳男略年譜
| 和暦 | 西暦 | 年齢(満年齢) | 事項 |
| 天保9 | 1838 | 0 | 8月9日、下伊那郡飯田町下荒町(現飯田市中央通り)に、医師田中隆三(如水)と母つま(旧姓奥村)の三男として生まれる。生家は美濃久々里の旗本で尾張藩の代官千村氏の陣屋。 |
| 安政3 | 1856 | 18 | 叔母の住む尾張名古屋に出て、はじめ儒者塚田氏に漢籍を学ぶ。 |
| 安政4 | 1857 | 19 | 伊藤圭介のもとで蘭学・医学・本草学を学ぶ。 |
| 安政5 | 1858 | 20 | 5月、嘗百杜(尾張の本草学者たちのグループ)の採集旅行(伊勢・菰野山)に参加。 |
| 万延元年 | 1860 | 22 | いった帰郷し、父を手伝う。 |
| 文久元年 | 1861 | 23 | 9月、伊藤圭介とともに江戸へ出て、幕府が設置した蕃書調所(のち開成所に改称)に出仕(物産方手伝出役)。 11月、伊藤圭介に随行して、横浜でシーボルトに面会する。 |
| 慶応2 | 1866 | 28 | 平果の接き木を試みる(日本での西洋リンゴ接ぎ木の嚆矢) 12月、第2回パリ万国博覧会に随行するためフランスに渡航する。 |
| 慶応3 | 1867 | 29 | 10月、フランスから帰国。 |
| 明治元年 | 1868 | 30 | 6月、明治政府が開成所を接収。開成所御用掛となる。 7月、大坂行きを命ぜられ、9月に舎密局を開設するため、舎密局御用掛となる。 |
| 明治2 | 1869 | 31 | 5月、三沢ゑいと結婚。 |
| 明治3 | 1870 | 32 | 3月、大学(学校兼教育行政官庁)に出仕。9月、大阪から東京に戻る。 9月、大学南校に物産局が設けられ同局に勤務。 |
| 明治4 | 1871 | 33 | 5月、大学南校物産局、物産会を開催する。 6月、文部省出仕、文部少教授。 9月、文部省に博物局が置かれ、博物局掛となる。 |
| 明治5 | 1872 | 34 | 1月、太政官正院に博覧会事務局が置かれ、各地の物産を集める。 3月、文部省博物局、湯島聖堂で博覧会を開催(東京国立博物館の創始)。 |
| 明治6 | 1873 | 35 | 1月、オーストリア・ウィーン万国博覧会に一級事務官として出張。 |
| 明治7 | 1874 | 36 | 8月、内務省勧業寮出仕(兼補)。 |
| 明治8 | 1875 | 37 | 8月、信州出張の途中、飯田・善勝寺に墓参する。 11月、アメリカ・フィラデルフィア万国博覧会に事務官として出張。 |
| 明治9 | 1876 | 38 | 2月、内務省権大丞。 |
| 明治10 | 1877 | 39 | 1月、内務省権大書記官。 2月、第1回内国勧業博覧会審査官。第3回パリ万国博覧会事務取扱(のち御用掛)を命ぜられる(国内での業務に従事)。 12月、オーストリア皇帝からリッテルクロイツ勲章を贈られる。 |
| 明治12 | 1879 | 41 | 5月、フランス政府からレジヨン・ドヌール勲章を贈られる。 10月、内務省農局博物局事務取扱。 |
| 明治13 | 1880 | 42 | 3月、オーストラリア・メルボルン万国博覧会事務官を命ぜられる(国内での業務に従事) 9月、内務大書記官に命ぜられる。 12月、第2回内国勧業博覧会審査部長。 |
| 明治14 | 1881 | 43 | 4月、農商務省大書記官、農務局長(博物局天産・農業課長を兼ねる)。 |
| 明治15 | 1882 | 44 | 3月、(農商務省)博物館、上野へ移転開館。動物園開園。 10月、博物局長(兼任)。 |
| 明治16 | 1883 | 45 | 1月、水産博覧会幹事、審査長。 6月、元老院議官に転任、農商務省農書編纂掛長。 |
| 明治18 | 1885 | 46 | 4月、大日本農会幹事長となる。 12月、東京学士会院会員となる。 |
| 明治20 | 1887 | 49 | 4月、大日本水産会の水産教育機関設置委員。 |
| 明治21 | 1888 | 50 | 長崎から持ち帰って播いたビワから大型品種(田中枇杷)を発見。 |
| 明治22 | 1889 | 51 | 11月、第3回内国勧業博覧会審査部長。日本園芸会副会頭。 |
| 明治23 | 1890 | 52 | 9月、貴族院議員に勅選される。 11月、神苑会農業館建設委員長となる。 11月、藍綬褒章受章。 |
| 明治26 | 1893 | 55 | 8月、第4回内国勧業博覧会評議員を命ぜられる。 |
| 明治27 | 1894 | 56 | 6月、大日本山林会幹事長(没年まで)。 |
| 明治28 | 1895 | 57 | 1月、第4回内国勧業博覧会審査第三部長を命ぜられる。 |
| 明治29 | 1896 | 58 | 1月、第2回水産博覧会評議員、審査官。 3月、貴族院で「一大完備の国立博物館」の設置を建議、可決される。大日本水産会幹事長。 |
| 明治34 | 1901 | 63 | 11月、第5回内国勧業博覧会審査第一部長。 |
| 明治35 | 1902 | 64 | 3月、東京高等農学校(現東京農業大学)の初代校長となる(明治40年まで)。 |
| 明治39 | 1906 | 68 | 4月、勲一等瑞宝章を受章。 東京学士会院が帝国学士院と改称され、同会会員となる。 |
| 明治41 | 1908 | 70 | 台湾縦貫鉄道全通式のため台湾出張。 |
| 大正2 | 1913 | 75 | 5月、大日本農会・山林会・水産会が合同で「田中芳男君七六展覧会」を開く。 |
| 大正4 | 1915 | 77 | 4月、大日本山林会会長となる。 6月、父如水の五十年忌法会を飯田・善勝寺で営む。 6月、飯田尋常高等小学校(現追手町小学校)で講演。 9月、朝鮮半島出張。 12月、男爵を授けられる。 |
| 大正5 | 1916 | 77 | 6月、従二位に叙せられる。胃潰瘍のため自宅(東京本郷)で死去。享年満77歳9ヵ月。 6月24日、谷中斎場で神葬祭、谷中墓地に葬られる。 |







