飯田・下伊那の文化財検索
福徳寺本堂
フクトクジホンドウ
指定区分 
重要文化財

指定年月 
1912・2

員  数 
一棟

制作年代 
室町時代

所在地名 
下伊那郡大鹿村大河原上蔵

所有者名 
大鹿村


 大河原は、室町時代前期に信濃宮と称された宗良(むねなが)親王(後醍醐天皇の第八王子)が、土豪香坂高宗らに守られて三十余年、大河原を拠点に各地を転戦した地である。この福徳寺は、天台座主であった宗良親王が天台宗の寺院として建てたものとも推測されている。現在は無住であるが、以前は福徳庵とよばれ、曹洞宗の寺であった。
 本堂は桁行三間、梁行三間、入母屋造、こけら葺の建物で、周囲に切目縁をめぐらす。外回りの円柱のうち隅の柱上部にのみ舟肘木を置き、ほかは直接桁を受けている。軒は一軒(ひとのき)の疎垂木(まばらだるき)とする。内部は竿縁天井(さおぶちてんじょう)で、かなり後方によって来迎柱を立てて仏壇を設けている。
 建築年代は、技法から判断して宗良親王の時代の造営とみている。長野県内の仏堂としては中禅寺薬師堂(上田市、重要文化財)に次いで古く、簡素であるがしゃれた意匠の小堂である。

データ番号【ア−01】 索引【ア】
八幡神社
ハチマンジンジャ
指定区分 
重要文化財

指定年月 
1930・5

員  数 
二棟

制作年代 
永正3年(1506)

所在地名 
下伊那郡阿南町富草古城

所有者名 
八幡神社


 八幡神社は通称古城八幡とよばれる。応永年間に下条頼氏が居城を構えた小峰に建つ。
 覆屋の中に二棟の社殿が並んでおり、向かって右が八幡神社本殿、左が摂社諏訪神社本殿である。いずれも一間社流造、こけら葺の社殿である。建築年代に関する史料として「下条記」には下条氏が京都の工匠吉村惣右衛門を招いて造立させたものと記されており、また、本殿内の神像に永正3年(1506)の銘があるので、このときの建築とされる。
 また覆屋に関して、享保13年(1728)の修復記録があるから、これ以前から覆屋があったことがわかり、社殿の保存状態がよく、細部まで明らかに残っている点で貴重である。
 八幡神社本殿の特徴は、まず、向拝の柱の上部にある象の鼻のように上に丸まった独特の木鼻の形にある。また、正面中央にある蟇股(かえるまた)の彫刻が二羽の鳩が向かい合った左右対称形になっている点、虹梁(こうりょう)の下に雲のような彫刻が付けられている点、内部に祭神を安置する作りつけの厨子がある点なども特徴である。
 摂社諏訪神社本殿は、八幡神社本殿と構造形式がほぼ同じであるが、向拝の木鼻が具象的でない点、虹梁に渦・若葉の絵様が施されている点、蟇股の彫刻が鷹一羽と橘で左右非対称となっている点などに特徴がある。この本殿の建築年代は江戸時代前期まで下がるかも知れない。

データ番号【ア−02】 索引【ア】
文永寺石室・五輪塔
ブンエイジセキシツ・ゴリントウ
指定区分 
重要文化財

指定年月 
1930・5

員  数 
二基

制作年代 
弘安6年(1283)

所在地名 
飯田市下久堅南原1142

所有者名 
文永寺


五輪塔は全高121センチで、上から順に、大空輪形の空輪・半月形の風輪・三角形の火輪・満月形の水輪・方形の地輪よりなり、五輪の面にそれぞれ梵字が刻まれている。これを納める石室の天井には文字が刻まれ、弘安6年(1283)12月29日、神(みわ)敦幸(知久敦幸)が南都の石工菅原行長に造らせたと書かれている。ともに花崗岩製。
五輪塔は形が優れ、石室内にあった関係で創建当時のままに鎌倉時代の様式をよく伝えていて貴重である。さらに例の少ない石室を伴い、鎌倉時代の銘文が刻まれている点で、その史的価値は大変高い。

データ番号【ア−03】 索引【ア】
木造薬師如来及両脇侍像
モクゾウヤクシニョライオヨビリョウワキジゾウ
指定区分 
重要文化財

指定年月 
1934・1

員  数 
三躯

制作年代 
平安時代

所在地名 
下伊那郡高森町大島山812

所有者名 
瑠璃寺


 瑠璃寺の本尊。各像ともヒノキの割矧(わりはぎ)造りで、螺髪(らほつ)、眉、髭、唇に墨、朱を用いるほかは素地のまま仕上げている。中尊は左掌上に薬壺をのせ、右手を垂下し、蓮華座上に結跏趺坐(けっかふざ)する等身の薬師如来像である。ふっくらと肉付きのよい相好に童子の幼さが残るものの、伏し目がちで鋭い眼は畏れすら感じさせる。肉身部は正面、側面観とも量感豊かで重厚な佇まいをみせ、11〜12世紀にかけて一世を風靡した優美な定朝様(じょうちょうよう)とそれ以前の森厳な作風とが調和し、独特の魅力を醸し出している。各像とも技法、作風に共通する特徴が看取され、三尊が一具のものとして制作されたことは明らかである。長らく秘仏とされてきたこともあり各像とも保存状態は良好で、制作当初の姿をよく伝えている。大方の見解通り、瑠璃寺の創建された天永3年(1112)頃の作と考えてよかろう。

(参考文献)
・『大嶋山瑠璃寺 開基900年記念誌』(瑠璃寺、2011年)
・井上正『続・古仏 古密教彫像巡歴』(法藏館、2012年)

データ番号【ア−04】 索引【ア】
白山社奥社本殿
ハクサンシャオクシャホンデン
指定区分 
重要文化財

指定年月 
1934・1

員  数 
一棟

制作年代 
永正6年(1509)

所在地名 
飯田市上飯田

所有者名 
白山社


 飯田市街地の西北方にそびえる秀峰風越山(かざこしやま)の山頂直下に建つ。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・菊理姫命(くぐりひめのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)をまつり、山麓にある白山社里宮とその神宮寺である天台宗白山寺と一体の関係をなしていた。
 奥社本殿は間口柱間が4・8メートルの規模の三間社流造(ながれづくり)、こけら葺の建物で、全体が弁柄(べんがら)塗り等で彩色されている。この本殿の造立時期は、昭和14・15年の解体修理の際に発見された墨書銘により、永正6年の建立と判明している。
 本殿手前に接続する幣殿・拝殿が享保16年(1731)に建立され、同時に本殿向拝の側面も板壁・板戸で塞がれたため、本殿正面の絵画彩色が今日まで保存状況よく残されることとなった。扉や羽目に絵が描かれている点がこの本殿の特徴でもある。
 母屋正面は柱間三間とも幣軸(へいじく)つき両開きの板扉となり、全体が黒漆塗りされ、扉の表側に幕を画き、背面には竜・亀・鳳凰(ほうおう)・麒麟(きりん)・白虎(びゃっこ)・白沢(はくたく)などの神獣の絵を画いている。母屋背面の中央間の板壁に滝見観音を画き、この中央間だけ外開きの板扉を釣る。
 この本殿は、屋根・垂木(たるき)を支える桁(けた)を母屋では二本隣接して並べ、向拝では三本隣接して並べている点に特徴がある。このように複数の桁を隣接して並べる形式は全国的には珍しいが、県内では室町時代後期のいくつかの建物に共通する形式である。また、独特の形の手挾(たばさみ)は筑摩神社本殿(松本市、重要文化財)と同一で、大工に関連性が伺える。

データ番号【ア−05】 索引【ア】
木造阿弥陀如来坐像
モクゾウアミダニョライザゾウ
指定区分 
重要文化財

指定年月 
1949・2

員  数 
一躯

制作年代 
平安時代

所在地名 
飯田市山本久米

所有者名 
光明寺


 いわゆる来迎印を結ぶ半丈六の阿弥陀如来坐像で、伊那谷では最も大きい木彫像の一つ。体躯の肉取りがやや大味で衣褶処理の仕方も平版ではあるが、穏健かつ洗練された藤原期の雰囲気を持ち、都のしかるべき工房によって制作されたことは明らかである。全般に形骸化した要素がみえる一方、口元を引き締めやや怜悧な目つきをみせる相好には新たな時代の息吹が感じられる。寺史をふまえ本像を鎌倉初期の作とみる意見もあるが、藤末鎌初期に近い12世紀後半頃まで遡らせても大過なかろう。現在は本堂の須弥壇(しゅみだん)脇に安置されているが、かつては同山の阿弥陀堂(現存せず)本尊であったという。

データ番号【ア−06】 索引【ア】
旧小笠原家書院
キュウオガサワラケショイン
指定区分 
重要文化財

指定年月 
1952・3

員  数 
一棟

制作年代 
寛永年間(1624〜44)

所在地名 
飯田市伊豆木3942

所有者名 
飯田市


 松尾小笠原氏から分かれた小笠原長巨(おがさわらながなお)は、慶長6年(1600)に旗本として伊豆木に封じられ、まもなくこの居館を建てて代々ここに居住した。居館全体は一種の城郭をなし、桝形の城門・物見櫓ほか広間・居間・台所など数多くの建物を配していたが、明治5年(1872)に諸建物は取り壊され、書院だけが残された。その際、御表の玄関を引き移して書院の正面入口とした。玄関の部分は、間口3・75メートル、奥行3・44メートルの向唐破風造、こけら葺の建物で、虹梁上に三階菱の定紋を入れた本蟇股をおく。
書院は入母屋造、妻入、こけら葺の建物で、玄関より南側は崖の上に張り出した懸造となっている。内部は田の字形の四室からなり、三方に一間通の入側をめぐらしている。
 南側奥の「書院間」は十一畳で一間半の床の間と花頭窓付の付書院がつき、格天井とする。入側境は腰高障子とする。その手前の「次の間」は十五畳で、三間の床の間をつけ、書院間との境に大菱組の欄間を入れ、格天井としている。北側奥の「居間」は十一畳で一間半の床がつき、棹縁天井。手前の「茶間」は十二畳で、棹縁天井となり、入側の長押上に竹ノ節欄間をつけ、外回りには中敷居を入れて腰高障子を入れて雨戸を立てる。内部の大菱欄間や格天井などに桃山風の豪壮さを伝え、近世初期の地方武家住宅を知る遺構として貴重である。

データ番号【ア−07】 索引【ア】
開善寺山門
カイゼンジサンモン
指定区分 
重要文化財

指定年月 
1952・3

員  数 
一棟

制作年代 
室町時代

所在地名 
飯田市上川路1000

所有者名 
開善寺


 開善寺は、鎌倉時代に伊賀良庄の地頭であった北条氏一族の江馬氏によって創建され、のち信濃守護となった小笠原貞宗が開基となり、建武2年(1335)に元の名僧清拙正澄(大鑑禅師)を京都建仁寺より招聘して開山とした。寺は暦応元年(1338)には諸山に列し、応永34年(1427)には十刹となっている。また、文和4年(1355)の銘のある梵鐘(長野県宝)も残されている。
 山門は、乱積基壇上に建つ三間一戸の楼門であるが、二階を欠くので一階部分に仮屋根をかけた切妻造、銅板葺の形式となっている。中央通路部分は柱と小脇壁はあるが、扉を入れた形跡がなく、未完成のままの門であったらしい。
 柱上部の木鼻は古風であるが、通肘木(とおりひじき)を用いる手法、大瓶束(たいへいづか)の結綿(ゆいわた)の形式などから判断して、開善寺中興の天文18年(1549)頃に再建された建築と考えられる。
 なお、境内の諸建築には、寛永8年(1631)の鐘楼、享保4年(1719)再建の本堂、安永4年(1775)の二の門(惣門)などがある。

データ番号【ア−08】 索引【ア】
画文帯四仏四獣鏡
ガモンタイシブツシジュウキョウ
指定区分 
重要文化財

指定年月 
1953・3

員  数 
一面

制作年代 
古墳時代(六朝時代)

所在地名 
飯田市上川路1000

所有者名 
開善寺


 前方後円墳である御猿堂古墳出土と伝えられる。やや厚手の周縁部には菱雲文帯(ひしうんもんたい)の内に仙人や龍・獅子などの聖獣が時計回りに飛翔疾駆する画文帯をもち、鋸歯文(ぎょしもん)で飾った傾斜面の内に、小珠地に各々四字の銘文を配する方形格と、半円形格を有する半円方帯がめぐる。内区には中央の大きな素鈕の周囲に、四つの環状乳を抱くように向かい合う二対の大きな聖獣を配し、その間に四組の仏像が表されている。仏像は立像ないしは坐像あるいは半跏踏み下げ像の2躯ないしは3躯の組み合わせからなり、計10躯を数える。周囲をつぼみ状の花房や獅子・禽(とり)などが埋めている。
 本鏡と共通したものに河内国金剛輪寺伝来の一面(現京都国立博物館蔵)がある。本鏡は大和王権による配布鏡である可能性が強く、当地方の重要度を物語る資料といえる。

データ番号【ア−09】 索引【ア】
大山田神社
オオヤマダジンジャ
指定区分 
重要文化財

指定年月 
1955・2

員  数 
二棟

制作年代 
慶安元年(1648)

所在地名 
下伊那郡下條村陽皐4588

所有者名 
大山田神社


 大山田神社は延喜式に載る古社であるが、ここがその鎮座地という確証はない。細長い覆屋の中に、主神大山田神を祀る本殿を挟んで、向かって右に相殿の応神天皇社本殿、左に鎮西八郎為朝社本殿が配置されている。ともに一間社流造、こけら葺の社殿である。
 応神天皇社(八幡社)は、前述の八幡神社本殿と類似した特徴(向拝の木鼻の形や、蟇股の彫刻、本殿内部に作りつけの厨子がある点など)がある。ただし、梁行を二間として、前の柱間に扉を設けている点は大きく異なっている。建築年代に関する史料として桁に「ひのへとらのとしはしらたて」の墨書があり、貞享3年(1686)の修理棟札に「永正年中再興」とあるので、永正3年(1506)の造立と考えられる。
 鎮西八郎為朝社本殿は、応神天皇社と同規模であるが、向拝の木鼻が具象的でない点、虹梁に渦・若葉の絵様が施されている点、蟇股の彫刻が左右非対称である点などで異なっている。また側面に扉がなく簡単な造りである。建築年代は棟札から慶安元年(1650)の再建と考えられる。

データ番号【ア−10】 索引【ア】
木造誉田別尊坐像
モクゾウホンダワケノミコトザゾウ
指定区分 
重要文化財

指定年月 
1958・2

員  数 
一躯

制作年代 
正応元年(1288)

所在地名 
飯田市八幡町1999

所有者名 
鳩ヶ嶺八幡宮


 像高約99センチの等身大の坐像で、巾子冠(こじかん)を戴き腹前で笏を執る衣冠束帯の姿を呈する。重厚な体躯、眼光鋭く森厳な相好は武神に相応しい威厳に満ちている。胎内墨書銘より「八幡大菩薩」として正応元年(1288)に完成したことがわかる。応神天皇を八幡神と同体とする説は平安初期以前からあり、当社では諱である誉田別尊の呼称を用いている。八幡神像の作例は、東大寺僧形八幡神坐像に代表されるような僧形のものと異なり、本像のように完全な俗体としてあらわされる作例はあまり知られていない。造形的にも優れ制作年代も明らかなことからその存在価値は甚だ高い。

データ番号【ア−11】 索引【ア】
松下家住宅
マツシタケジュウタク
指定区分 
重要文化財

指定年月 
1973・6

員  数 
二棟

制作年代 
文政3年(1820)

所在地名 
下伊那郡大鹿村大河原1665

所有者名 
松下こと


 赤石山脈の西側、小渋川の谷沿いに点在する集落の中にあり、急傾斜面の多いなかで比較的ゆるやかな場所を選んで建てられている。松下家は御館といわれた大地主層の一軒であった。
 松下家の主屋の建築年代は、カミザシキの書院障子の框(かまち)に「文政三辰年三月拵」の墨書があり、文政3年(1820)もしくはそれより少し前に建設されたと考えられる。
 主屋は、間口八間半、奥行七間半の規模で、正面ほか三方に下屋が付く。屋根は現在鉄板葺であるが、当初は石置板葺であった。
 間取りは、細長い土間の片側に、部屋を前後三列に配置し、土間の下手に馬屋等が並ぶ。建築年代が19世紀に入っているので、主屋の中央にあった大きな居間が分割され、上手のオエイは床の間を付けた部屋となり、背後のダイドコロが拡大され数室に仕切られるなど、間取りが複雑になっている。
 構造で特筆されるのは、土間の左側にある馬屋とそれに続く小部屋が構造的に主屋と別に造られていることで、両者の境には柱が二列に立てられている。このように主屋・馬屋を別構造とする形式は、下伊那地方や木曽地方に分布している。
 なお、主屋北側にある土蔵は明和9年(1772)の建設である。

データ番号【ア−12】 索引【ア】
竹ノ内家住宅
タケノウチケジュウタク
指定区分 
重要文化財

指定年月 
1973・6

員  数 
一棟

制作年代 

所在地名 
下伊那郡高森町吉田1987-1

所有者名 
竹ノ内元


 竹ノ内家は、天竜川を東に望む段丘上にあり、当主で14代目にあたると伝えられる旧家である。
 主屋の建築年代は、正面の棟束(むなづか)の内側に打たれていた棟札から、寛政11年(1799)と判明している。
 主屋は、間口七間半、奥行八間の本棟造で、正面には間口全幅に渡る太い妻梁が通り、座敷の表側はこの梁より内側に五尺後退して、土庇となっている。下伊那地方の本棟造では、松下家(国重文 下伊那郡大鹿村)のように下屋庇を付ける形式より、竹ノ内家住宅のように二階を迫り出して一階に土庇をとる形式の民家が多い。竹ノ内家はその形式の古い遺構といえる。
 間取りを復原すると、入口から奥に土間が通り、居室部は中央に居間(ヨコザ・ナカノマ)があり、表側に客座敷を二室とり、裏側に内向きの居室を三室設けた形となる。
 竹ノ内家住宅は、江戸時代中期までの本棟造に比べて間取りでは居室の分化が進んでおり、構造では屋根裏の空間を広くして養蚕に使うという実用面の工夫がみられるなど、江戸後期の本棟造の特徴をよく示している。

データ番号【ア−13】 索引【ア】
諏訪社
スワシャ
指定区分 
重要文化財

指定年月 
1993・4

員  数 
二棟

制作年代 
元亀4年(1573)

所在地名 
下伊那郡泰阜村字家ノ上

所有者名 
諏訪社


 諏訪八幡宮は旧金野村の産土神で、創立等はあきらかでない。現在、覆屋の中に、左に諏訪社本殿、右に八幡宮本殿が並んで建つ。祭神は諏訪社が建御名方神、八幡宮が応神天皇である。
 諏訪社本殿は、一間社流造で、屋根に垂木を用いず、厚板の継ぎ目に目板を打った簡単な構造である。向拝は縁の前に一段低い棚板のようなものを設けただけで、階段はない。正面の虹梁を柱の上部をつなぐ一般の形式とせず柱の上に置く形式にしている点は珍しい。
 八幡宮本殿は二間社流造であるが、構造形式は諏訪社本殿と同様である。
 建築年代は棟札から元亀4年(1573)と判明している。

データ番号【ア−14】 索引【ア】
絹本著色八相涅槃図
ケンポンチャクショクハッソウネハンズ
指定区分 
重要文化財

指定年月 
1993・6

員  数 
一幅

制作年代 
鎌倉〜南北朝時代

所在地名 
飯田市上川路1000

所有者名 
開善寺


 画面中央に釈迦入滅(涅槃)の場面を描き、その周縁に釈迦臨終前後の7つの説話を配するいわゆる八相涅槃図(はっそうねはんず)。以下順にたどると、画面向かって左下に鍛冶屋純陀(ちゅんだ)の供養、その上に虚空を上昇する釈迦(臨終遺誡)、画面中央に涅槃、画面向かって右下に金棺出現(再生説法)、その上に金棺不動、その上に拘尸(くし)城を旋回する金棺、画面中央上部に迦葉接足(かようせっそく)・荼毘(だび)、画面向かって左上に分舎利をそれぞれ描く。八相涅槃図の類例は通常の涅槃図に比べて格段に少ない。なかでも本図の図様は、13世紀頃の作と目される岡山・遍明院、同・自性院安養院、京都・万寿寺の各本に近似する。その作風は、全体の落ち着いた色調に対して釈迦をはじめとする登場人物が色鮮やかにあらわされ、諸本に比して明快な仕上がりである。同本の箱書きには、江戸末期に当時の住持唐山寿盛(とうざんじゅせい)が、東福寺塔頭(万寿寺か)の涅槃像を拝し、開善寺本と同様であったと記している。

データ番号【ア−15】 索引【ア】
高山彦九郎日記
タカヤマヒコクロウニッキ
指定区分 
重要美術品

指定年月 
1935・5

員  数 
一巻

制作年代 
安永7年(1778)

所在地名 
飯田市追手町2-655-7

所有者名 
牧内寛之(飯田市美術博物館寄託)


高山彦九郎(1749〜1793)は、江戸時代後期の勤王家で、上野国新田郡細谷村(群馬県太田市細谷)に生まれた。京三条大橋に額ずき遙かに皇居を拝したり、足利尊氏の墓石を鞭打った等の逸話をもち、寛政三奇人の一人とよばれた。本書は95日間の詳細な日記である。他にも「都日記」など多くが遺され、天明飢饉をはじめ江戸時代の世相を知ることのできる資料となっている。

データ番号【イ−01】 索引【イ】
紙本墨書正親町天皇宸翰女房奉書
シホンボクショオオギマチテンノウシンカンニョウボウホウショ
指定区分 
重要美術品

指定年月 
1940・2

員  数 
一帖

制作年代 
弘治4年(1558)

所在地名 
飯田市下久堅南原1142

所有者名 
文永寺


天文23年(1554)8月、武田氏による神之峰城侵攻により文永寺・安養寺ともに焼失し、寺領も押領された。正親町天皇はこのことを聞いて驚き、弘治4年正月、武田信玄に再興するよう綸旨を下したが、信玄はこれに従わなかった。本書は信玄への綸旨と同時に文永寺に下したもので、太元帥修法が無事おこなわれてめでたい、文永寺・安養寺再興がかなうと喜ばしい、と記している。

データ番号【イ−02】 索引【イ】
紙本墨書後奈良天皇宸翰女房奉書
シホンボクショゴナラテンノウシンカンニョウボウホウショ
指定区分 
重要美術品

指定年月 
1940・2

員  数 
一帖

制作年代 
室町時代

所在地名 
飯田市下久堅南原1142

所有者名 
文永寺


女房奉書は、天皇の勅旨を側近の女官が「女消息体」で書いたもので、室町時代ことに戦国時代に広く用いられた。皇室と深い関係のあった文永寺には計8通が伝わっている。本書は、後奈良天皇が太元帥修法をおこなうようにと下したものである。太元帥修法というのは、宮中で正月8日から十四日にかけて鎮護国家・敵国降伏のために祈願をおこなう密教の修法の一つである。当時は戦国時代で、群雄割拠のため皇室の衰微が甚だしかった。

データ番号【イ−03】 索引【イ】
紙本墨書後奈良天皇宸翰御懐紙
シホンボクショゴナラテンノウシンカンオンカイシ
指定区分 
重要美術品

指定年月 
1940・2

員  数 
一帖

制作年代 
室町時代

所在地名 
飯田市下久堅南原1142

所有者名 
文永寺


 文永寺は第6世宗詢が京都醍醐寺理性院に入り、和歌が優れた縁故で後花園天皇の寵愛を受け、皇室と深い関係となった。康正2年(1456)同天皇の綸旨により太元帥堂が建てられ、鎮護国家・怨敵退散を祈る太元帥修法の祈祷所となった。本書は、第十世宗然が宮中で太元帥修法を修めた時、後奈良天皇(1526〜57在位)から与えられた宸翰の和歌と伝えられる。読みは次のとおり。「かげひろき めぐみも見えて 春の水/天つ空にも すめるふな人」

データ番号【イ−04】 索引【イ】
開善寺鐘楼
カイゼンジショウロウ
指定区分 
重要美術品

指定年月 
1948・10

員  数 
一棟

制作年代 

所在地名 
飯田市上川路1000

所有者名 
開善寺



データ番号【イ−05】 索引【イ】
木造薬師如来坐像
モクゾウヤクシニョライザゾウ
指定区分 
重要美術品

指定年月 
1949・4

員  数 
一躯

制作年代 
保延6年(1140)

所在地名 
飯田市山本久米

所有者名 
光明寺


飯田市久米・光明寺の薬師堂の本尊。像内に保延6年(1140)の墨書銘をもつ。年記を有する在銘の仏像としては県内最古級。文久元年(1861)に修理されている。平成27年に飯田市美術博物館に寄託された。

データ番号【イ−06】 索引【イ】
下黒田の舞台
シモクロダノブタイ
指定区分 
重要有形民俗文化財

指定年月 
1974・11

員  数 
一棟

制作年代 
江戸時代

所在地名 
飯田市上郷黒田2346

所有者名 
飯田市 諏訪神社


 間口8間、奥行四間の木造2階建、入母屋造・瓦葺の人形芝居専用の舞台。1階は舟底と本舞台、さらに奥の舞台からなり、一の手摺・二の手摺(てすり)・奥の手摺が設けられている。奥の手摺上に第一背景、背後の板戸に第二背景を取り付けできるが、さらに背後の板戸をはずして背後の森を借景とすることも可能である。大夫座は上手・下手の両方にある。2階は楽屋となり、背景を吊り下ろす仕組みとなっている。もう一つ大きな特徴は、屋根裏の梁組みが亀甲梁の方式を採用していることである。亀甲梁は江戸時代後期に歌舞伎舞台に普及した梁形式の一つで、前面の邪魔な柱を除くために梃子の原理を応用して長大な桁を跳ね上げるようになっている。
 これを建造した棟梁は、桜町2丁目の和泉屋善兵衛であるが、これほど本格的な舞台の設計には、天保3年(1832)に大坂から来て黒田に住み着いた人形遣い桐竹門三郎や吉田亀造が関わったと推測される。
 全国的にみても、人形舞台特有の舞台機構を完備した、もっとも大きく古い舞台として貴重である。

データ番号【ウ−01】 索引【ウ】
雪祭
ユキマツリ
指定区分 
重要無形民俗文化財

指定年月 
1977・5

員  数 

制作年代 

所在地名 
下伊那郡阿南町新野

所有者名 
伊豆神社雪祭り保存会


 主に1月14日夕方から15日朝を中心に伊豆神社(下伊那郡阿南町新野)で開催される豊作予祝(よしゅく)のオコナイの祭である。雪を豊年の予兆とみて大切に扱うところからその名がある。じつはこの祭りは1月1日に始まり、10日(現在は12日)〜16日にかけておこなわれる。
 14日の夕刻近く、初春の太陽から採った「神の火」の提灯を先頭にした行列が諏訪社を出発し、伊豆神社へと向かう。神楽殿と拝殿での舞に続いて神事があり、午後一時頃、庭の大松明に神の火が点火されると、この灯りに導かれて、歳神(としがみ)をかたどった幸法(サイホウ)とよぶ面が登場して三三九度に舞い、その合間にドンド焼きの餅あぶりや火バツ献上、子授けの呪法などをおこなう。ついでモドキ、競馬(きょうまん)、お牛、翁、神婆(かんば)、天狗、鎮めと獅子などの神々の面がつぎつぎと現れ、それを周囲の村人がはやしたてる。まさに神と人との饗宴というにふさわしい光景がくり広げられる。

データ番号【エ−01】 索引【エ】
天竜村の霜月神楽
テンリュウムラノシモツキカグラ
指定区分 
重要無形民俗文化財

指定年月 
1978・5

員  数 

制作年代 

所在地名 
下伊那郡天龍村

所有者名 
坂部・向方・大河内


 1月4日夕刻から5日昼(古くは旧暦霜月14日)にかけておこなわれる霜月神楽で、「霜月祭」ともよばれた。夕刻、火の王社(下の森)を出発したお練りが諏訪社(上の森)に到着すると、神事ののち「古典祭」の湯立神楽となる。天照皇大神の御湯・火の王社の御湯など計八立の湯立てがくり返される。それぞれに先立ち、童子による花の舞や本舞が伴うが、舞はいずれも三三九度に構成される点に特徴がある。五立の湯立ての後、火の王社から面迎えがあり、たいきり面、水の王・火の王等の面形舞と素面による狂言が続き、再び湯立てとなる。現在の式次第には「お清め祭」とよばれた臨時祭特有の次第を加えているが、全体的に天竜川西岸の霜月神楽群のなかでも古い形を伝えている。『熊谷家伝記』には、正長元年(1428)に湯立神楽を開始したと記される。なお、この祭は本来、神子(宮人)」によって担われた。

データ番号【エ−02】 索引【エ】
遠山の霜月祭
トオヤマノシモツキマツリ
指定区分 
重要無形民俗文化財

指定年月 
1979・2

員  数 

制作年代 

所在地名 
飯田市南信濃

所有者名 
遠山霜月祭り保存会


 遠山郷の12ヶ所、十三社で開催される霜月神楽である。神社内に湯釜を設け、その周囲で神事や舞をおこなうが、祭の内容は地区ごとに4タイプ(上町・下栗・木沢・和田)に大別できる。基本的には午後(夕刻近く)から祭場の祓いと神名帳奉読による神迎えに始まり、湯立てと舞をくり返す。そして夜中に全国の神々を返したのち、夜明けにかけて神社の祭神や地区内の神々が面となって登場する。面は一社あたり15面から40面があって、火の王・水の王とよぶ呪術面のほか祭神や神使(しんし)の獣面などがあるが、なかでも大きな特徴は旧領主遠山氏一族をかたどった「八社の神」とよぶ御霊(ごりょう)面の存在である。
 祭を主宰するのはネギとよばれる民間の宗教者で、呪文を唱え、印を結び九字(くじ)を切るなど神仏混淆の形をよく残す。また、共食(きょうしょく)・献饌儀礼をきちんと伝える点でも注目できる。
 遠山一帯は鎌倉時代、鶴岡八幡宮の信濃国唯一の神料地であった歴史をもち、13社中7社までが八幡神社で、多くは「鎌倉正八幡」を名乗る。当時、荘園儀礼として導入された祭が、遠山の霜月祭の起源と考えられる。

データ番号【エ−03】 索引【エ】
大鹿歌舞伎
オオシカカブキ
指定区分 
重要無形民俗文化財

指定年月 
2017・3

員  数 

制作年代 

所在地名 
下伊那郡大鹿村

所有者名 
大鹿歌舞伎保存会


 伊那谷は江戸時代後期から明治時代にかけて歌舞伎(地芝居)が大変盛んであったが、明治時代になって、神社にある舞台での歌舞伎や狂言を禁じる県の通達や鑑札制度によって、しだいに廃れ、現在では大鹿村・下條村・平谷村だけとなった。そのなかで大鹿村はとりわけ盛んで、海外公演などにも出かけている。
 上演外題は20を越え、なかでも「六千両後日文章」は、大鹿村独特なものとされて貴重である。
 この歌舞伎の始まりは、明和4年(1767)の前島家文書の「作方日記帳」に「かしを狂言」の記述があり、当時すでに盛んであったことがわかる。最盛期には大鹿村内13ヶ所に舞台があったが、現在は大磧・野々宮・市場・葦原の四神社に残り(いずれも村有形文化財)、春秋の2回上演されている。

データ番号【エ−4】 索引【エ】
遠山の霜月祭
トオヤマノシモツキマツリ
指定区分 
重要無形民俗文化財

指定年月 
1979・2

員  数 

制作年代 

所在地名 
飯田市上村

所有者名 
遠山霜月祭り保存会


 遠山郷の12ヶ所、十三社で開催される霜月神楽である。神社内に湯釜を設け、その周囲で神事や舞をおこなうが、祭の内容は地区ごとに4タイプ(上町・下栗・木沢・和田)に大別できる。基本的には午後(夕刻近く)から祭場の祓いと神名帳奉読による神迎えに始まり、湯立てと舞をくり返す。そして夜中に全国の神々を返したのち、夜明けにかけて神社の祭神や地区内の神々が面となって登場する。面は一社あたり15面から40面があって、火の王・水の王とよぶ呪術面のほか祭神や神使(しんし)の獣面などがあるが、なかでも大きな特徴は旧領主遠山氏一族をかたどった「八社の神」とよぶ御霊(ごりょう)面の存在である。
 祭を主宰するのはネギとよばれる民間の宗教者で、呪文を唱え、印を結び九字(くじ)を切るなど神仏混淆の形をよく残す。また、共食(きょうしょく)・献饌儀礼をきちんと伝える点でも注目できる。
 遠山一帯は鎌倉時代、鶴岡八幡宮の信濃国唯一の神料地であった歴史をもち、13社中7社までが八幡神社で、多くは「鎌倉正八幡」を名乗る。当時、荘園儀礼として導入された祭が、遠山の霜月祭の起源と考えられる。

データ番号【オ−04】 索引【オ】
新野の盆踊
ニイノノボンオドリ
指定区分 
重要無形民俗文化財

指定年月 
1998・12

員  数 

制作年代 

所在地名 
下伊那郡阿南町新野

所有者名 
新野高原盆踊保存会


 下伊那郡阿南町新野の中心地にある市神の祠とその上に設置された踊り屋台を中心に、長い大きな輪を作って踊り明かす。踊りは太鼓など楽器がなく、音頭取りの唄にあわせた手踊りに特徴がある。その種類は「すくいさ」「おさま甚句」・「高い山」「十六」「音頭」「おやま」があり、これを連夜踊り続けるのである。
 16日には新盆宅から持ち寄られた切子灯籠が踊り屋台に吊され、17日未明の踊り神送りでは、それを担ぐ行列の行く手をふさぐかのように「能登」を踊る大小さまざまな輪ができ、一種攻防のさまとなる。行列がジョウドに到着すると切子灯籠を積み上げて御嶽行者が道切の式をし、空鉄砲を合図に焼却する。村人は「秋唄」を唄いながら後ろを振り向かずに家路につく。
 大正15年(1926)、これを見学した柳田国男は、「仏法以前からの亡霊祭却の古式がある」(『信州随筆』)と高く評価した。なお、新野でも14・15日は新盆宅を踊り歩き、16日には寺で踊ったという。

データ番号【オ−05】 索引【オ】
飯田古墳群
イイダコフングン
指定区分 
史跡

指定年月 
2016.10.3

員  数 

制作年代 

所在地名 
飯田市

所有者名 
admin_mail


飯田古墳群は、飯田市の天竜川右岸段丘上の南北約10Km、東西約2.5Kmの範囲に、古墳時代中期から後期(5世紀後半から6世紀末)にかけて継続して築造された18基の前方後円墳と4基の帆立貝形古墳からなる古墳群。このうち、比較的良好に残る11基の前方後円墳と2基の帆立貝形古墳が国史跡に指定された。
古墳群は広範囲に及ぶが、一体の古墳群として捉えることで、古墳時代中・後期にみられるヤマト王権による政治支配の状況や東国経営のあり方を知ることができるとともに、ヤマト王権を構成する地域社会の動向を知る上でも重要である。

飯田古墳群として指定された古墳

座光寺  高岡第1号古墳(たかおかだいいちごうこふん)
上 郷  飯沼天神塚(雲彩寺)古墳(いいぬまてんじんづか(うんさいじ)こふん
松 尾  御射山獅子塚古墳(みさやまししづかこふん) 
     姫塚古墳(ひめづかこふん)
     上溝天神塚古墳(あげみぞてんじんづかこふん)
     おかん塚古墳(おかんづかこふん)
     水佐代獅子塚古墳(みさじろししづかこふん)
竜 丘  大塚古墳(おおつかこふん)
     塚原二子塚古墳(つかばらふたごづかこふん)
     鏡塚古墳(かがみづかこふん)
     鎧塚古墳(よろいづかこふん)
     御猿堂古墳(おさるどうこふん)
     馬背塚古墳(ませづかこふん)

データ番号【カ-03】 索引【カ】
恒川官衙遺跡
ゴンガカンガイセキ
指定区分 
史跡

指定年月 
2014.3、2016.10追加

員  数 

制作年代 
飛鳥−平安時代

所在地名 
飯田市座光寺3446−3ほか

所有者名 


恒川官衙遺跡は、飯田市座光寺に所在する7世紀後半から10世紀前半にかけて営まれた伊那郡の役所(伊那郡衙)と考えられる遺跡である。これまでに、税として集めた稲などを保管した正倉の建物やそれらを区画した溝、役所の給食施設である厨家、郡衙を区画する溝などが確認されている。
遺跡の中央には「恒川清水」と呼ばれる清水があり、その近くからは多数の木製品が出土しており、祭祀を行った場所と考えられている。
遺跡からは、和同開珎銀銭、「厨」・「官」と書かれた墨書土器、のほかに、昔の役人たちが使っていた多数の硯が出土している。
なお、飯田市で国指定史跡となるのは「恒川官衙遺跡」が初めてである。


恒川遺跡群出土品 計110点

「官」4点・「官」カ1点・「厨」1点・「信」1点  計 7点
 圏足円面硯79点・円面硯2点・蹄脚円面硯1点・獣脚円面硯2点・転用硯4点 計88点 
 軒丸瓦3点・丸瓦3点・軒平瓦6 点・平瓦3点 計15点

データ番号【カ−02】 索引【カ】
神坂峠遺跡
ミサカトウゲイセキ
指定区分 
史跡

指定年月 
1981・9

員  数 

制作年代 

所在地名 
下伊那郡阿智村智里神坂山4257-68ほか

所有者名 
国(農林水産省)


 古墳時代から中世にかけての峠祭祀遺跡。標高1595メートル、美濃国から信濃国に至る東山道最難関の峠で、往古は「神の御坂」あるいは「信濃坂」とよばれた。昭和26年大場磐雄(おおばいわお)博士の指導により初めての発掘。次いで昭和42・43年、阿智村教育委員会が本格的な調査を実施し、多量の祭祀遺物が発見された。古事記・万葉集等の文献記載でも著名な場所である。

データ番号【カ−01】 索引【カ】
天龍峡
テンリュウキョウ
指定区分 
名勝

指定年月 
1934・1

員  数 

制作年代 

所在地名 
飯田市川路・龍江

所有者名 
飯田市


 天竜川によって浸食された100?余におよぶ峡谷の中心的な美観。「天竜峡」の名は弘化4年(1847)、備中国岡山の儒学者阪谷朗廬(さかたにろうろ)が岩を砕く激流と高い断崖・岩壁の景観を賞して命名。以来多くの名士が訪れている。
 明治時代の書道家日下部鳴鶴(くさかべめいかく)が奇岩を中心に「龍角峰」以下十勝を選定した。昭和26年県立公園に、昭和44年天竜奥三河国定公園に指定された。

データ番号【キ−01】 索引【キ】
カモシカ
カモシカ
指定区分 
特別天然記念物

指定年月 
1955・2

員  数 

制作年代 

所在地名 
県下全域

所有者名 


 日本の固有種で、原始的な形態を残し氷河期の生き残りといわれている。伊那谷では、中央アルプス、南アルプス、伊那山地、三河高原などの山地に広く生息し、林道や登山道で見かけることも多い。
 古くから毛皮・肉・角が利用されてきた動物であるが、拡大造林政策による皆伐と植林地の増加とともに、昭和40年頃からヒノキなどの幼木を食い荒らす食害が問題となっている。そのため、特別天然記念物に指定されているにもかかわらず、有害鳥獣として個体数を定めた駆除がおこなわれている。

データ番号【ク−01】 索引【ク】
ライチョウ
ライチョウ
指定区分 
特別天然記念物

指定年月 
1955・2

員  数 

制作年代 

所在地名 
県下全域

所有者名 


 日本では南北アルプスと御岳山・新潟県火打岳の高山に生息する。中央アルプスと八ヶ岳、石川県白山の個体群は絶滅したといわれている。
 中央アルプスの個体群が絶滅してしまった現在、伊那谷では南アルプスの高山帯にのみ生息が知られているが、個体数はあまり多くない。南アルプスのイザルガ岳が現在知られている分布の最南端にあたる。
 高山帯のハイマツ帯に生息し、高山植物を餌としている。冬には羽毛が生え替わり、真っ白な冬毛になる。

データ番号【ク−02】 索引【ク】
中央構造線 北川露頭・安康露頭
チュウオウコウゾウセン キタガワロトウ・アンコウロトウ
指定区分 
天然記念物

指定年月 
2013.10

員  数 
2ヶ所

制作年代 

所在地名 
下伊那郡大鹿村鹿塩4344−1054(北川露頭)・下伊那郡大鹿村大河原5012−4(安康露頭)

所有者名 
大鹿村


県天然記念物(2005.9指定)→国天然記念物

データ番号【ケ-07】 索引【ケ】
新野のハナノキ自生地
ニイノノハナノキジセイチ
指定区分 
天然記念物

指定年月 
1922・10

員  数 

制作年代 

所在地名 
下伊那郡阿南町新野

所有者名 
阿南町


 新野殿林地区の国道151号線から西側に約100メートル程入った湿地帯にある。道路脇には「国指定ハナノキ自生地」と記した石碑が建立されている。かつては大木が自生していたが、戦後食料増産のための開拓や、近くに温水溜池(大村湖)が造られたことなどによって古木は姿を消し、今は町の保護によって二世のハナノキが育っている。

データ番号【ケ−01】 索引【ケ】
柴犬
シバイヌ
指定区分 
天然記念物

指定年月 
1936・12

員  数 

制作年代 

所在地名 
県下全域

所有者名 



データ番号【ケ−02】 索引【ケ】
月瀬の大スギ
ツキセノオオスギ
指定区分 
天然記念物

指定年月 
1944・11

員  数 

制作年代 

所在地名 
下伊那郡根羽村月瀬

所有者名 
根羽村


 根羽川のほとり、月瀬橋を渡って200?ほどの月瀬神社境内にそびえ立つ。胸高周囲13・8?、樹高40?、樹齢1800年の国内第3位の巨木である。スギは日本特産で、雨量の多い本州・四国に分布し、九州にはわずかにみられる。
 この大杉は月瀬神社の御神木として尊崇され、「虫歯を病む者が祈願をすると霊験が著しい」とか「世の中に大事変があると大枝が折れる」などの言い伝えがある。また、弘化元年(1804)、江戸幕府本丸焼失の折に復興用材として伐採の危機があったが無事逃れ、明治41年(1908)の神社合祀の際も大杉売却の決議がなされたが、月瀬住民の厚い願いにより保護され、今日に至っている。

データ番号【ケ−03】 索引【ケ】
イヌワシ
イヌワシ
指定区分 
天然記念物

指定年月 
1965・5

員  数 

制作年代 

所在地名 
県下全域

所有者名 


 日本最大級の猛禽(もうきん)類である。日本では近畿地方以北の山岳地域で繁殖しているのが確認されているが、生息数は極めて少ないようである。伊那谷では南アルプスと中央アルプスで繁殖していることが確認されている。
 個体数が少なく繁殖力が弱いうえ、奥地の開発などによって生息が脅かされていることもあり、もっとも絶滅が心配されている鳥類の一種である。

データ番号【ケ−04】 索引【ケ】
ヤマネ
ヤマネ
指定区分 
天然記念物

指定年月 
1975・6

員  数 

制作年代 

所在地名 
県下全域

所有者名 


 日本の固有種で、北海道をのぞく各地に生息が知られている。伊那谷では大鹿村、飯田市上村、伊那市などでの目撃例が報告されており、低山地から山地帯にかけて広く分布していると思われる。夜間に活動することもあって、活動中の個体が目撃されることは稀。小鳥の巣箱内や住居の古布団の中、朽ち木の中などで越冬中の個体が見つかることがある。

データ番号【ケ−05】 索引【ケ】
小黒川のミズナラ
コグロカワノミズナラ
指定区分 
天然記念物

指定年月 
1996・9

員  数 

制作年代 

所在地名 
下伊那郡阿智村清内路1158-4

所有者名 
阿智村


 下伊那郡清内路村の洞根(どうね)集落からさら小黒川にそって約3メートル程上流にさかのぼった、標高約1000メートル余の道路沿いにある。
 胸高周囲6・4メートル、樹高20メートル、樹齢300余年の巨木で、根元には祠があり、地元では「小黒川の大マキ」とよばれて親しまれている。周囲に樹木がなく、みごとな樹形をなし、枝張りの美しさは日本随一ともいわれている。
 ミズナラは、標高1000メートル以下の川路・三穂丘陵にもわずかに自生するが、一般にはブナと同じく標高1000メートル以上にあって、クヌギ・アベマキなどと住み分けをしている。

データ番号【ケ−06】 索引【ケ】
伊那谷のコト八日行事
イナダニノコトヨウカギョウジ
指定区分 
選択無形民俗文化財

指定年月 
2011.3

員  数 

制作年代 

所在地名 
飯田市、駒ヶ根市、下伊那郡

所有者名 



データ番号【コ-20】 索引【コ】
小渋橋
コシブバシ
指定区分 
国登録有形文化財

指定年月 
2011.10

員  数 
1基

制作年代 
昭和32年(1957)

所在地名 
下伊那郡大鹿村大河原

所有者名 



データ番号【コ-b-05】 索引【コ】
上蔵堰堤
ワゾエンテイ
指定区分 
国登録有形文化財

指定年月 
2009.4

員  数 
1基

制作年代 
昭和28年(1953)

所在地名 
下伊那郡大鹿村大河原

所有者名 



データ番号【コ-b-06】 索引【コ】
飯田市立追手町小学校校舎
イイダシリツオウテマチショウガッコウコウシャ
指定区分 
国登録有形文化財

指定年月 
2005.12.26

員  数 
1棟

制作年代 
昭和6年(1931)

所在地名 
長野県飯田市追手町2-673-1

所有者名 
飯田市立追手町小学校


鉄筋コンクリート造地上3階地下1階建、建築面積3753u

データ番号【コ-b-01】 索引【コ】
飯田市立追手町小学校講堂
イイダシリツオウテマチショウガッコウコウドウ
指定区分 
国登録有形文化財

指定年月 
2005.12.26

員  数 
1棟

制作年代 
昭和6年(1931)

所在地名 
長野県飯田市追手町2-673-1

所有者名 
飯田市立追手町小学校


鉄骨造平屋建、鉄板葺、建築面積893u

データ番号【コ-b-02】 索引【コ】
旧山本中学校杵原校舎管理教室棟
キュウヤマモトチュウガッコウキネハラコウシャカンリキョウシツトウ
指定区分 
国登録有形文化財

指定年月 
2005.12.26

員  数 
1棟

制作年代 
昭和24年(1949)

所在地名 
長野県飯田市竹佐377-1

所有者名 


木造平屋建、瓦葺、建築面積609u

データ番号【コ-b-03】 索引【コ】
旧飯田測候所庁舎
キュウイイダソッコウジョチョウシャ
指定区分 
国登録有形文化財

指定年月 
2012.8

員  数 
1棟

制作年代 
大正時代

所在地名 
飯田市馬場町

所有者名 



データ番号【コ-b-06】 索引【コ】
下伊那教育会館
シモイナキョウイクカイカン
指定区分 
国登録有形文化財

指定年月 
2014.10

員  数 
1棟

制作年代 
昭和13年(1938)

所在地名 
飯田市仲ノ町

所有者名 
下伊那教育会



データ番号【コ-b-07】 索引【コ】
下伊那教育会土蔵
シモイナキョウイクカイドゾウ
指定区分 
国登録有形文化財

指定年月 
2014.10

員  数 
1棟

制作年代 
昭和13年(1938)

所在地名 
飯田市仲ノ町

所有者名 
下伊那教育会



データ番号【コ-b-08】 索引【コ】

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参考文献/『伊那谷の文化財 - 飯田下伊那の特質を探る -』飯田市美術博物館発行