飯田・下伊那の文化財検索

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下伊那のかけ踊り
シモイナノカケオドリ
指定区分 
選択無形民俗文化財

指定年月 
1999・12

員  数 

制作年代 

所在地名 
下伊那郡

所有者名 
飯田市上村・阿南町・天龍村・泰阜村


(大河内のかけ踊・盆踊)
 大河内の盆行事は、新盆宅を供養して踊り歩くなど、当地方のなかでも全体にもっとも古い形をきちんと伝えている。8月1日は「中老さまの踊り」、6日は「若衆の踊り」と称して掛け踊と盆踊をし、7日は「伽藍様の踊り」と称して池大神社で念仏(和讃)を唱える。14日は愛宕堂を出発し、新盆宅の家をまわり歩いて掛け踊・和讃と盆踊をおこなうが、このとき年長者の女性の家から始める決まりがある。新盆宅には百八タイ(108本の松明)に迎えられて踊り込む。15日は新盆供養と盆踊り、16日は盆踊りがおこなわれるが、零時近くになると「大念仏」を唱え、「八幡」を踊ってから、ナンマイダンボのかけ声につれて庚申様まで行く。ここで新盆家から出された切子灯籠を焼却し、「花の四節」を唱えて終わる。

(坂部のかけ踊・盆踊)
 阿弥陀堂近くの坂部分校庭を「堂の庭」とよび、ここで輪になって掛け踊と和讃をしたのち、行列を組んで約300?離れた金比羅様へ行き、ここで掛け踊・盆踊をし、堂の庭に帰って「引け踊り」で終わる。
 この掛け踊は寛政元年酉の年(1789)から始めた雨止めの「願かけ踊り」といわれるが、明治41年(1908)までは大河内と同じく新盆宅をまわったという。

(下栗のかけ踊)
 十五社大明神内で準備をしたのち、禰宜による祓い等の神事があり、そののち社殿内で一踊り、神社の庭で一踊り、下の集落センター前(旧分校跡)で一踊りをする。かつては「シデ踊り」とよばれ、紙垂の垂れた菅笠をかぶるのは太鼓打ちではなく、子女郎とよばれる小中学生の女子である点に特徴がある。昭和十年代までは随所の祠堂で踊りながら下栗から大野の子安様まで行った。坂部とは逆に、雨乞いにこれを踊り、それでも降らない場合は「逆さ踊り」と称して下栗まで踊って戻ったり、中郷のお池まで水迎えに行ったという。

(向方のかけ踊・盆踊)
 8月14日、長松寺でかけ踊と盆踊をおこなう。祇園囃子で山門まで行った一行が、迎えタイの点火を合図にされた「庭入り」してかけ踊を踊り、ご馳走をいただいたのちに盆踊をし、「かばらい踊り」「引け踊り」をして山門を出る。16日は新盆宅の切子灯籠が長松寺の庭に持ち寄られ、手踊りの盆踊を踊る。零時近くに「八幡」となり、庭の一角で「送り盆唄」が唱えられる。これが終わると、盆に迎えた新仏を残らず送り返すための踊りといわれる「かんぴょうえ踊り」となる。続いてマトウサンバ(的納め場)へと行き、切子灯籠を焼却するかたわらに座して「送り盆唄」を唱える。
 なお、14日は戦前までは新盆の家を踊り歩いたという。

データ番号【コ−18】 索引【コ】

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参考文献/『伊那谷の文化財 - 飯田下伊那の特質を探る -』飯田市美術博物館発行