黒田人形は、三人遣いの人形浄瑠璃である。その始まりは一人遣い時代の元禄年間(1688〜1703)といわれ、文政年間以降明治30年代までに淡路の人形遣い吉田重三郎、大坂の人形遣い桐竹門三郎・吉田亀造・吉田金吾らを師匠に迎えた歴史をもつ。特に前三者は黒田に定住して当地に没し、その墓が太念寺にある。また、諏訪神社境内にある人形舞台(国有形民俗文化財)は桐竹門三郎らの設計指導によると推測されている。
黒田人形でとりわけ注目できるのは、三番叟をはじめ人形の操法に、「手」とよぶ古い型を30近く伝える点である。頭・手・足の動きから連続動作まで、それぞれの型には「くり頭」「弓張り」「なげぶし」などの名前が付き、「膝稽古」によって型の習得に努めていたという。かつては「明神講」や青年会によって担われてきた。
人形のかしらはおよそ100頭を有する。