疱瘡と向き合う人びと

1月に入り飯田市でもコロナの感染が拡大し、本館も11日から休館に。また、27日にはまん延防止等重点措置が長野県内にも適用され、もうしばらく休館が続きそうです。

12月から開催している文化トピック展示「飯田下伊那における疫病」は、皮肉にもコロナによって会期が減ってしまいました…。そんなコロナへの恨みつらみもこめて「疱瘡」への対処法を中心に展示資料を何点か取り上げてみます。

「疱瘡」(天然痘)は、治癒後も顔に痘痕(あばた)が残ることから「見目定め」ともいわれ、非常に恐れられていた感染症でした。飯田下伊那では近世以降30回以上も流行しており、現役の飯田藩主も亡くなっています。そんな疱瘡をもたらすと考えられたのが疱瘡神で、これを退散させると信じられたのが源為朝という武士です。

この絵馬は下條村の大山田神社に奉納されたものです。為朝と鬼のような姿をした疱瘡神が描かれています。同社は為朝を祀っていることから、疱瘡除けの信仰を集め、絵馬の数は約400点にのぼります。祈願を掛けた人びとが平癒のお礼として奉納したものと考えられます。今回の展示ではその一部をお借りしています。

また、疱瘡の平癒を祝う「疱瘡祝」という習俗もありました。

この資料は初誕生などの節目に、飯田藩士の子どもに贈られたものの帳面の綴りです。その中には、疱瘡から回復した際のお祝いに贈られたものの帳面も含まれています。疱瘡が人生の一つの節目として意識されていたことが分かります。

疱瘡は20世紀になって根絶しますが、それをもたらしたのが「種痘」の普及です。

この錦絵は、幕末に種痘を啓蒙するため飯田町で配布されていたものです。種痘が本格的に普及するようになるのは明治に入ってからですが、この絵の背後には、種痘によって命を救おうと努力していた医師たちの姿が浮かびます。実際、嘉永5年(1852)に飯田町で種痘を実施していた記録も見つかっています。

こうした資料を通して長い疫病との闘いを経験してきた人びとの姿を振り返ってみるのは、いかがでしょうか。

(民俗担当)

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