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■小黒川〜千畳敷 | |||
小黒川から信大演習林コースの尾根道をたどり、主稜線にでて、将棊頭山から木曽駒ヶ岳に登り、宝剣岳を回って千畳敷からロープウェイで下山した。菅ノ台からは、デポしておいた自転車で小黒川の桂木場までもどった。 この間は、道が整備されているので迷う心配はない。信大演習林コースは、1/2.5万地形図に載っている山腹をジグザクに登る道よりも、今回たどった尾根道の方が歩きやすそうだ。 茶臼山分岐からは、ずっと高山景観を楽しみながら歩くことができる。 |
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小黒川はその名の通り、黒い粘板岩からなっている。河原の石をみると、大きな石は白い花崗岩で、小さな石は黒い粘板岩であることが多い。これは、粘板岩の方が小さく砕けやすい性質があるからだ。花崗岩には、灰〜黒色の包有物が頻繁に入っている。これは、木曽駒花崗岩の特徴だ。 粘板岩には、ときどき白い石英脈が入ってくる。この石英脈は、熱水(温泉水)の通り道だったことを示す。ときどき水晶の六角柱状の結晶が見つかるかもしれない。 |
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信大の西駒演習林に入ると、すぐに山小屋が現れる。今はあまり使われていないようだが、背後にチャートの岩盤の高まりがあって、上流から押し寄せる土石流からうまい具合に守られている。 この付近には、ときどきチャートが分布していて、尾根や小突起をつくっている。粘板岩に比べて、チャートは硬いので、凸型の地形をつくりやすい。川筋に露出するチャートは、きれいな縞模様をつくっている。 |
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粘板岩の表面をみると、斑状の小さな黒い鉱物ができている。新鮮な割れ目よりも、風化した表面の方が窪んでいるのでよく分かる。これは、たぶん菫青石だろう。 菫青石は、泥岩(粘板岩)が熱変成を受けたときにできる変成鉱物だ。アルミニウムやマグネシウムを含んでいる泥岩が、高温の状態にさらされると、その状態に安定的な菫青石ができるというわけだ。肉眼で見えるほど大きくなったものを斑状変晶という。 熱源は、主稜線に露出している木曽駒花崗岩のマグマだろう。木曽駒花崗岩の周囲の堆積岩には、このような菫青石がよく見られる。
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将棊頭山の山頂付近に、天水岩というテーブルのような岩塊がある。テーブルの上は平で水平だ。この岩の上に、ポットホールのような小さな窪みがある。不思議なのは、いつ見ても水をためていることだ。 窪みの形をよくみると、曲率が一定でなく、周囲が急に窪んでいて、底の方は比較的平らだ。窪みは、下の方へ拡大していくのでなく、周囲へ広がるように拡大している。 これはたぶんグナマというもので、水の凍結破砕作用によって花崗岩にできた窪みだ。水際が一番凍結融解を繰り返すので、窪みの周囲がどんどん壊されていくことになる。 |
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この遭難記念碑は、中箕輪尋常高等小学校の集団登山で発生した、大正2年の気象遭難を忘れないようにと、上伊那教育会でつくられたものだ。この遭難で亡くなった赤羽校長と生徒10人の名前が記されている。遭難記念碑は、木曽駒花崗岩の岩塔に彫られたもので、碑文は長年の風化と侵食によってやや読みづらくなっている。 この遭難記念碑のすぐ横に、2004年に副碑が建てられた。ここには、遭難記念碑の碑文がそのまま転載されている。つまり、遭難記念碑の碑文が読みづらくなったのを機に、記憶を風化させないようにとつくられたものらしい。 この碑をめぐって、「中央アルプスの自然を愛する会」からクレームが出された。他から持ち込まれた碑は周辺景観となじまないなどの理由からだ。実際に、新しい碑は砂岩に彫られたものであり、中央アルプスの岩石ではない。おそらく南アルプス由来の岩石だろう。 記憶を伝える手段は、石碑だけではない。現在、行っている箕輪中の集団登山もその一つだ。また、登山者が語り伝えることは、もっと大切な方法だろう。高山に人工物が増えてきた現在、できるだけ自然に負荷をかけることなく、伝えていく努力が大切と思う。 |
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高山帯では、凍結融解などの風化作用や風雪による侵食作用が激しく起こっている。ハイマツや高山植物などを見ても、厳しい環境にうまく適応している様子をみることができる。 花崗岩地帯では、風化や侵食の厳しさは、岩石をみればよく分かる。岩石表面が厳しい凍結破砕作用で風化を受けてボロボロとなり、それを激しい侵食作用で吹き飛ばしていく。その結果、岩石表面には、風化に強いところが飛び出し、弱いところが窪むという、変化が起こる。 木曽駒花崗岩には、暗色包有物と呼ばれる、鉄に富んだマグマ由来の岩片がたくさん含まれている。これが花崗岩よりも細粒で緻密なため、風化に強く、突起をなしている。 |
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馬ノ背までくると、氷河地形をいくつも見ることができる。まず、馬ノ背自身が、氷河によって削り取られたやせ尾根(アレート)だ。東には濃ヶ池カールと、その先に続くU字谷がみえる。カールの周囲は急峻なカール壁となっている。 ところで、氷河が一番発達していた頃には、末端がどこにあったのだろう。伊勢滝のすぐ下流側に花崗岩の巨礫を含む堆積物があるが、これはモレーンなのかもしれない。そうすれば、氷河は伊勢滝の下まで伸びていたことになる。 最終氷期の最後の氷河が削り取ったところが濃ヶ池カールだ。ここでも末端にはモレーンがある。ここではモレーンにせき止められてできた氷河湖、濃ヶ池がある。最近、土砂に埋まったり、水位が下がったりして池の面積が小さくなってしまった。 |
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木曽駒ヶ岳から宝剣岳にかけては、広々とした平坦面がある。かつては、準平原時代の遺物とされてきたが、最近では、周氷河性の平坦化作用が重複していると考えられている。 高山帯では水の凍結融解によって、岩盤の破砕、土壌のかく乱、表層の流動などが起こる。これらの作用によって、凸部の岩盤が砕かれて砂礫が形成され、これらが表層部の流動で凹地を埋めていくと平坦地ができる。 平坦地には、ハイマツや高山植物群落がパッチ状に点在していて、周氷河性の構造土もみられる。表層部の流動を示す構造土の一種、階状土や、微地形・微気候条件によって決まる植生配置などが非常に興味深い。 |
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宝剣岳は、尖峰(ホルン)といえるのだろうか。尖峰は三方向からの氷食によってできる地形で、氷河が覆っていた時代でも白い氷の塊から頭を出していた大地だ。宝剣岳の場合、北側には飼駒ノ池カール、南東には千畳敷カールがある。しかし、西側にはカールの痕跡はみられず、滑川谷頭の崩壊地となっている。 宝剣岳の形をみても、氷食で削られ磨かれた面はみられない。むしろ、節理の間隔が大きかったため、侵食に抵抗して残った岩塔といった方がよいだろう。すでに節理からはがれた岩が倒れたりしている。おそらく大きな地震のたびに山頂の形は変化していくのだろう。 宝剣岳の上からは、千畳敷カールやモレーンがよく見える。中央アルプスでは典型的なカールなのに、モレーンが千畳敷ロッジによって改変されてしまったのは残念だ。 |
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