第一話  鳴門勝景を追って  −阿波井神社編−
阿波井神社から堂浦を見る

 
 鈴木芙蓉筆「鳴門十二勝真景図」(徳島市立徳島城博物館蔵)は、徳島藩蜂須賀家のお抱え絵師となった芙蓉が、藩主の命を受けて鳴門の景勝を巡り、渦潮など12図を画巻に納めたものである。1999年10月開催の特別展「江戸南画の潮流T−谷文晁と鈴木芙蓉−」に先だって、絵に描かれた場所を探して徳島県鳴門市へと旅することになった
  これは堂浦という集落に着いた時の話である。ここでは画巻の中の一図「阿波井祠前望堂浦」の景観を探すことが目的であった。その阿波井神社は、堂浦から海を隔てた対岸の島田島に鎮座していた。地図によるとこの島は遙か北方で橋で結ばれ、陸づたいにたどり着くならばかなり大回りをしなければならない。目前の対岸に目を向けてみると確かに鳥居が望め、阿波井神社の存在は確認できた。
  だが、これについてひとつの難問があった。地図上でのシュミレーションでは、阿波井神社へ向かう対岸の道が、自動車の走行が出来ないのではないかと想定されていたからである。とすれば、もうひとつのルートは船便ということになる。そのことを確かめるため、道沿いの商店で尋ねてみることにした。すると案の定、陸路はすでに絶たれて存在せず、船を利用するしかないとのことである。しかも定期便はなく、対岸の療養施設へと連絡する渡し舟に同乗するしかないという。
 渡し舟の桟橋は、通りに面した狭い路地を入るようにあった。途中の小さな待合い小屋には、療養所利用者専用で無料で利用できることが書かれている。ただし商店での話では船頭に頼めば利用者でなくとも乗ることができるとのことであった。しかし舟でないと渡れない療養所とは、少し躊躇を覚えるシュチエーションである。しかも陸路はない……。桟橋には舟の影はなく、人の姿も見えない。ただ静かな内海が横たわるだけであった。
  桟橋で待つこと数分、にわかに人影が現れた。若い白衣の医師ふたり、そして横たわった病人然とした老人。さらに薬品会社の営業風の男。これが次の舟の乗客らしい。彼等の後を、やや緊張の面もちで桟橋に進んでみると、対岸から船首に傘を立てた小型船が迫り来るのが見えてきた。病床の老人は医師に連れられてすでに脇にたたずんでいる。海辺の広がりのある風景が、老人を余計にちっぽけな存在に見せている。
  桟橋につけられた小型船は、ごく簡素なまさに対岸へ渡すだけの船である。客室などはなく、舟べりに簡易の腰掛けがあり、屋根はかかっていなかったように思う。船首に立つ男は会話がままならない様子で、乗船を頼んでもいまひとつ対話にならない。とりあえず頷くそぶりを確認し、乗船となった。都合6人の客を乗せ、船は桟橋を離れた。船首の男は傘の下で仁王立ちで前方を睨んでいる。対岸は近く、目と鼻の先にあり、堂浦の集落と阿波井の半島が視界の両側に入った。静かな内海を取り巻くひなびた漁村と人気のない神社の風景の中を、療養所へ向かう小さな船が行く。それは少しだけ時代を遡るような不思議な体験であった。
  程なくして船は対岸に着いた。そこには療養所の殺風景な建物と樹林に埋もれた神社があるだけだ。桟橋にはフナムシが群れていた。療養所の敷地を抜けて神社へと進む。たどり着いた鳥居の前は海辺に灯籠が二基せり出し、船着き場のようになっていて、コンクリートが海に向かっていた。祭日には今もここへ参拝者が着くのであろうか。
  対岸に目を向けると芙蓉の描いた「阿波井祠前望堂浦」の景観があった。彼もまたここに着き、対岸を眺めてたたずんだのかも知れない。芙蓉の時代の年号を持つ石灯籠は今もそこに立ち、かたわらの草むらを幾匹かの蟹が走っていく。鳥居の奧には、境内へと向かう桟道がひっそりと続いていた・・・。  (槇村)